第16話 十二人分の受け取り
窯場の黒板に、セシリアが白墨で二本の線を引いた。
「上の十六枚から、九枚。二回目は十枚です」
リディアは数字を書き写す手を止めなかった。止めたら声が出てしまいそうだった。
一回目の溶解では、坩堝の上層だけを巻き取って素体を十六枚取った。泡を抱えていたのは二枚、格子の線が波打ったのは一枚。研磨に回した十三枚のうち、カールが篩にかけた砂で仕上げて、焦点台で幅に入ったのが九枚だった。二回目は灰の澱を丸一日寝かせ、扉側の棚を空けたまま冷ました。合格は十枚。
前の十六枚と合わせて、三十五枚になる。
「目標の十枚に、一回目は届いていません」
セシリアは自分から言った。リディアは頷いた。
「届かなかった一枚の理由も、帳面に書いてありますね」
「研磨のあと、縁の面取りで欠けました。カールが角を落とすのに慣れれば減ります」
窯の奥では、ヨハンが窓硝子の仕込みに戻っていた。ローヴェン商会へ納める寸法の板硝子が、いつもの間隔で棚に並んでいく。レンズに使えたのは、その合間の半日ずつだった。
リディアは番手ごとの欄を作った。十二人に必要なのは、一番が一組、二番が一組、三番が五組、四番が三組、五番が二組。左右で合わせて二十四枚。三十五枚の内訳を一枚ずつ当てはめていくと、一番三枚、二番六枚、三番十枚、四番九枚、五番七枚で、今の割り振りには足りていた。ただし、三番には予備がない。
「数は足りています。でも、誰か一人でも番手が変わったら、そこで組めなくなるかもしれません」
「変わったら、変えます」
セシリアの答えは短かった。リディアはその欄の横に、小さく丸をつけた。
*
納品は四日に分けた。会所での相談と、欠席者への確認を経て決めた順番どおりだ。先に揃った三組も枠の調整と試用後の検査に日を使い、皆へ改めて連絡したこの四日間に渡すことになっていた。
初日の朝、リディアは公証人の事務所へ向かった。商人鑑札の写し、十二人分の購入誓約、それに新しい売買契約書の束を持って行った。公証人の書記が鑑札の印を確かめ、誓約の番号と照らし合わせていく。
「売買契約に本人の署名が入った時点で、預りの三枚を手付金に充てる。署名のない方の分は、引き続きここで預かります」
「はい。一人ずつ、署名のたびに受け取りに来ます」
一度に三十六枚をまとめて動かせば、手間は省ける。だがそれをやれば、まだ眼鏡を受け取っていない人の金まで商店の手元に来てしまう。リディアは書記に一礼して、最初の振替用紙を一枚だけ受け取った。まだ署名も払い出しの印もない紙だった。
一人目はオズワルドだった。貸していた試作の二枚は工房へ返し、検査済みの新しい二枚を、使い慣れた蝶番付きの枠に組み直した。彼が三番の一組を掛けると、写本の頁に目を落とし、黙ってしばらく行を追った。延長のたびに日付を確かめてきた貸与の書付は、その場で双方が線を引いて閉じた。購入の署名をもらい、預りの三枚を代金へ充てる手続も進めた。
「つるが、もう耳に食い込まん」
それだけ言って、彼は残金の銀貨九枚を一枚ずつ机に並べた。リディアは領収書に、番手、左右の刻印番号、残金九枚、手付金充当三枚と書き込み、写しを渡した。
*
二日目に来たヘルマンは、掛けて半刻もしないうちに鼻の付け根を指で押さえた。試用のときに赤くなった場所だった。
「痛いのとは違う。重いんだ。手本を写していると、だんだん下がってくる」
セシリアが彼の顔の正面に回り、鼻当ての位置を目で追った。
「レンズの中心が、瞳より下にずれています。番手のせいではありません」
隣の作業台で待っていたトビアスが、鼻当ての脚を細い鉗子で起こした。角度を半分だけ広げ、肌に当たる面を少し寝かせる。三度掛け直して、三度目にヘルマンの肩から力が抜けた。
「これは枠の合わせ方の問題だ。最初の調整は代金に入ってる」
トビアスはリディアにそう言ってから、自分の帳面に「ヘルマン、鼻当て再調整」と書いた。
同じ日、帳場係のエーミールが三番の一組を試していた。読み札ははっきり読める。けれど帳簿を机に広げて見せてもらうと、彼は背筋を立てたまま、頁を腕一本ぶん向こうに置いていた。
「この距離だと、少し……目がつらい」
「三番は、もっと近くを見るための番手です」
セシリアは試験枠を取り出し、二番を差し込んだ。エーミールは同じ帳簿を見て、ゆっくり瞬きをした。
「こっちのほうが楽だ」
リディアは欄を見た。二番は六枚あり、アンナの分を除いても四枚残る。そのうち二枚をエーミールへ回せた。三番で用意した二枚は在庫へ戻す。個人分の内訳は、二番が二組、三番が四組へ変わった。組合へ回せる番手も、ここで数え直さなければならない。
それでも、合わない三番を渡すわけにはいかなかった。
「三番から二番へ変更です」
リディアは領収書の番手欄を書き直し、変更の理由も添えた。帳簿を見る距離が遠いため。
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三日目、製本工房のマグダが、眼鏡を掛けたまま糸巻きを取りに立ち上がろうとした。リディアは止めはしなかったが、口は開いた。
「立つときは、外してからにしてください。遠くを見るとぼやけて、足元が分かりにくくなります。組合の試用で、机の角にぶつかった方がいました」
マグダは笑って眼鏡を外した。
「ライムントでしょう。会所じゅうの噂よ」
リディアはひと通り注意を伝え、同じことを書いた紙も渡した。近くの仕事のときだけ使うこと。頭の上に押し上げないこと。痛みやめまいが出たらその日は外し、店に知らせること。置き場所を決めて、箱にしまうこと。曲げたり落としたりしないこと。
「目が、これで良くなるわけじゃないのね」
「良くはなりません。近くを見る手伝いをするだけです。急に見え方が変わったとか、片方だけ痛むとかいうときは、店より先に施療院へ行ってください」
*
保証の話をしたのは、四日目に来た写字生ベンノの前だった。
「落としたら、どうなる」
ベンノがそう訊いたとき、リディアが口を開くより早く、セシリアが言った。
「工房に持ってきてください。直します。お代は……」
リディアはその先を待たずに、机に一枚の紙を置いた。
「お困りのときの窓口は、全部ベル商店です。番手が合わなければ交換します。硝子に泡や歪みがあれば、ノルド工房の責任で取り替えます。通常使用で生じた枠の製作上の不具合は、三か月のあいだトビアスさんが無償で直します。落としたり踏んだりして壊れた場合は、修理代をいただきます。いくらになるかは、この表に書いてあります」
ベンノは表を指でなぞり、頷いて署名した。
客が帰ったあと、セシリアは研磨台の縁に手を置いたまま、しばらく黙っていた。
「さっきは、口を挟まれたくありませんでした」
「すみません。でも、あの方が帰ってから言うと、約束だけが残ってしまうので」
リディアは帳面を開いた。
「一組十二枚のうち、六枚半がノルド工房への卸代です。枠が二枚半、箱や布が半枚。それとは別に、一枚と少しを交換と修理の費用として見込み、使わなかった分も取り分けておきます」
「取ってある?」
「エーミールさんの番手を替えましたね。あれは引渡し前の確認で、レンズは在庫へ戻りました。ヘルマンさんの鼻当ての初回調整も、枠代に入っています。別に備えているのは、お渡ししたあとに商店が負担する交換や修理の分です。まだ払っていなくても、儲けとして使ってしまわないために」
セシリアの指が、研磨台の縁で止まった。
「お父さんの読み石の修理は、夜にしていたんですよね」
リディアは慎重に言葉を選んだ。
「あなたが夜を削らなくても、客が困らないようにしたいんです。そうでないと、この店はあなたが倒れた日に終わってしまう」
炉の音だけがしていた。
やがてセシリアは、親指に巻いた布を一度ほどき、また巻き直した。
「あなたは、父の読み石を帳面の上で切った人です」
「はい」
「それは、変わりません」
「はい」
「でも、今日の帳面は」
セシリアはリディアの帳面のほうを見ずに言った。
「わたしが知っているどの商人のものより、職人の手間をちゃんと数えていました」
リディアは返事をしなかった。できなかった、というほうが近い。
*
十二人目の署名を受け取った夕方、リディアは公証人の事務所で最後の振替を済ませ、銀貨三枚と払い出し済みの控えを受け取った。署名の済んだ分だけ、四日間で三十六枚が商店へ移った。納品時に受け取った残金は百八枚。合わせて百四十四枚。卸代のうちこの十二組分の七十八枚は、最初に工房へ払った前払の八十枚から充当し、残る二枚は組合分へ繰り越す。トビアスには、検めの済んだ十組分の枠代を払った。
店に戻ると、セシリアが黒板の前に立っていた。
三十五枚から二十四枚が出ていき、残りは十一枚。一番一枚、二番二枚、三番二枚、四番三枚、五番三枚。そのうち三枚は相手がいない。
組合の十八組には、三十六枚が要る。
「残りの溶解は三回です」
セシリアは白墨を置いた。
「一回十枚取れて、ようやく間に合います」
十二人分の受け取りが入った箱は、確かに重かった。それでもリディアの目は、黒板に書かれた二十五という数字から離れなかった。




