第18話 一枚目の受領書
帳面を閉じる前に、リディアはもう一度最初の頁へ戻った。
樽屋の二階は、夕方になると下から酢と木の匂いが上がってくる。机の上には受領書の束が三つある。右が個人十二人の分、真ん中が写字生組合の分、左がノルド工房との取引の分。どの紙も、どこかで誰かが署名した瞬間を覚えている。
公証人の振替書は十二枚。一人三枚ずつの申込保証金が手付金に変わったことを示す紙だ。その下に、納品の日に受け取った残金九枚の受領控えが十二枚。オズワルドの控えだけは字が大きい。眼鏡を掛けてから書いたからだ、と本人は笑っていた。
組合の束はもっと薄い。契約書の写しが一通、前金百八十枚の受領書が一通、十八組の検収書にはフェルスターの署名と会計役の組合印。そして検収の席で受け取った百八枚の控え。
数えていくと、今期の売上は三十組で三百六十枚になる。客から実際に受け取った銀貨はそれより多く、四百三十二枚。差の七十二枚は、まだ渡していない十二組の分だ。
リディアはその数字の横に、細く線を引いた。
この七十二枚は儲けではない。約束だ。次の四半期に十二組を納めるまでは、果たしていない仕事が残る。納期を守れなければ、契約に従って返金を求められる。
左の束をめくる。最初に工房へ払った前払八十枚の領収書。個人十二組の卸代として、その八十枚から七十八枚を充てた記録。組合の十八組分、百十七枚のうち、前払の残り二枚を引いて現金で払った百十五枚。セシリアの几帳面な字で「受領 ノルド工房」とある。最初の三十組分、百九十五枚。これで全部払い終えた。
それから、自分の店の出費。トビアスへ払った三十組の枠代と箱や布で九十枚。鑑札と保証の手数料、試用の道具、移転支度と敷金などの初期支出で百枚。この部屋の家賃、事務の紙と墨、自分の暮らしに百五枚。先に払った最初の月の家賃は、こちらに一度だけ入れてある。
残った銀貨は九十二枚だった。そのうち三十六枚を、交換と修理の備えとして別の小袋へ移した。引当と書いただけで消えた金ではない。まだ店の金だが、日々の仕入れには回さないと決めた分だった。
最後に、運転資金を入れた鍵付きの小箱の中身を数えた。
五十六枚。
リディアは一度だけ息を吐いた。
三十組売った。十二人が自分の目で選び、組合が議決を経て買った。前世の会議室なら、立ち上げ期の数字としては悪くないと言われただろう。それでも、保証用の袋を開けずに動かせる銀貨は七十二枚に届かない。
次の期にも十二組を納められず、七十二枚を返すことになれば、この箱だけでは足りない。保証用の袋まで開ければ返せても、そのあとの修理と仕入れが続かなくなる。そうならないように、十二組を作って納めなければならない。この五十六枚は自由に使える金ではなく、次の仕事を回すための最低限の息継ぎだった。
帳面の余白に、来期の分を小さく書き足した。組合の十二組、検収時に七十二枚。工房の窓硝子は来月も同じ数で納める。第二回の返済は百六十五枚と四分の三。
最後の数字だけは、リディアが払うものではない。
*
翌朝、ノルド工房の作業場では、炉がいつもの低い音を立てていた。ヨハンが窓硝子を板ごと持ち上げて棚へ運び、カールは研磨台の前で親指の腹を揉んでいる。
セシリアは奥の机に、布袋を二つ並べていた。
「こっちが窓の準備金」
左の袋の口を開け、十枚ずつ重ねていく。九十枚。三か月、毎月三十枚ずつ別の箱に移してきた分だ。窓硝子の稼ぎからヨハンの賃金と炉の燃料代を払い、残りを入れてきた。
「こっちがレンズの分」
右の袋からは七十八枚。
リディアは手を出さなかった。椅子の背に手を置いたまま、セシリアが自分の帳面と銀貨を照らし合わせるのを見ていた。
セシリアの帳面には、商店から入った卸代が二行ある。前払の八十と、検収の後に払われた百十五。その下に、硝子と燃料と研磨砂の代金。自分の暮らしに使った分。そして今日の七十八。
「カールさんとヨハンさんの今月分は」
聞いてしまってから、余計だったかと思った。
「昨日払った」とセシリアは顔も上げずに言った。「炭屋の掛けも済ませた。誰かを待たせて作ったお金で返しても、来月が続かないから」
それから返済用の袋の口を縛り、取り分けたあとの残りを数えた。二十七枚。
「これが、うちのレンズの手元」
「うちの店は、交換用の備えを除いて五十六です」
セシリアが初めて顔を上げた。
「教えてくれなくてよかったのに」
「知っておいてほしかったんです。足りなくなったとき、あなたの二十七枚を当てにしているわけじゃない、ということも含めて」
セシリアは少し黙ってから、乾いた声で言った。
「当てにされたら断ってた」
「はい。そう思っていました」
二人の間で、それは冗談に近いものになった。ほんの少しだけ。
*
ローヴェン商会の帳場は、リディアが三か月前まで毎日通っていた部屋だった。磨いた床も、壁の暦も、何も変わっていない。変わったのは、自分が客の側の長椅子に座っていることだけだ。
同席してほしいと言ったのはセシリアだった。商会の受領書の様式を知っている人間に、書き漏らしがないか見ていてほしい、と。口を挟まないことを条件に、リディアは頷いた。
アルベルトは時間どおりに来た。父ゲオルクが一礼して下がり、帳場には三人と銀貨だけが残る。
セシリアが袋を二つ机に置いた。
「第一回の返済です。元本百五十、利息十八、合わせて百六十八枚」
アルベルトは自分で数えた。十枚ずつの山が十六、そして八枚。指先の動きは速く、迷いがない。数え終えると、契約書の写しを開き、返済表の一行目に印をつけた。
「元本百五十、確かに。利息は期首の残高千二百に対して一分五厘、十八。残りの元本は千五十」
受領書に同じことを書き、署名して、商会の印を押す。それから向きを変えてセシリアの前に置いた。
「次は第六月末に、百六十五枚と四分の三。窓硝子の納めは、これまでどおり月に二度」
「承知しています」
セシリアは受領書を読んだ。一行ずつ、指でなぞりながら。千五十、の字のところで指が止まり、それからまた進んだ。最後まで読んでから、自分の名前を控えに書いた。
アルベルトはその様子を黙って見ていた。
「期日どおりだ」と彼は言った。「眼鏡が売れたことは聞いている。……よくやった、と言うのは筋が違うか」
「数字が合っていれば、それで結構です」
「そうだな」
彼は少しだけ口元を緩め、それ以上は何も言わなかった。
帰り際、扉の前でアルベルトがリディアを呼び止めた。セシリアは先に廊下へ出ている。
「帳場の席は空けてある。気が変わったら、いつでも」
命令ではなかった。昔から彼は、相手が断りにくいことを、断れる形で言うのが上手い。
「ありがとうございます。でも、店の帳面が待っていますから」
「そうか」
アルベルトはそれだけ言って、扉を閉めた。
*
港へ下りる坂道で、セシリアは受領書を胸の前に持ったまま歩いていた。
「一回目」と彼女が言った。
「一回目です」
「あと七回」
「あと七回」
セシリアは小さく笑った。笑ったことに、自分で驚いたような顔をした。
「父の治療と炉の修繕のために借りたお金を、父に渡せなかった眼鏡で返したの。……変な気分」
リディアは何も言わなかった。言えることがなかったし、言うべきでもないと思った。
坂の途中で、セシリアは足を止めた。
「あなたの数字だと、来期はどうなるの」
「組合の十二組を必ず納めること。新しい買い手を見つけること。炉の時間は窓硝子が先です。それから」リディアは言葉を選んだ。「今回払えたのは、あなたが不良品を一枚も外に出さなかったからです。三十組で一件の差し戻しもなかった。それがなければ組合の次はありません。ただ、同じことを七回続けなければ、工房の名前は守れません。一度の成功で、仕組みができたわけじゃないんです」
セシリアは受領書を見下ろした。千五十、の字。
「わかってる。でも今日だけは、一回目を払ったことにしておく」
「ええ。今日はそうしましょう」
それ以上は近づかなかった。肩を並べて歩いても、二人の間には、前の年に自分が書いた起案書の一行がまだ挟まっている。リディアはそれを忘れていなかったし、セシリアも忘れたようには見えなかった。
*
店に戻ると、扉の隙間に封書が差し込まれていた。フェルスターの字だった。
組合の会所で写字生たちが眼鏡を掛けているのを、レース職人組合の者が見ていったらしい。手元の細かい仕事に悩む者は向こうにも多い。話を聞きたがっている者がいる、と。
最後に一行、遠慮がちな字で書き添えてあった。
――ただし、あちらの親方は、ローヴェン商会の参謀だった方の店だと知っておられます。品は見たいが、売り手を信じる気はない、とのことです。
リディアは封書を机に置き、鍵付きの小箱の隣に並べた。
五十六枚と、まだ会ったことのない誰かの不信。
窓の外では、港の倉が夕日を受けて赤く光っていた。三年前、あの倉で父のための読み石を買った。その仕入れを切り捨てる起案書を、翌々年には自分が書いた。そのことを、商都の誰かがまだ覚えている。
リディアは帳面を開き、新しい頁の一行目に書いた。
第四月。レース職人組合。
第二章




