5.
彼の名前はアルジャノン・ハクスリー。
今日の花婿、ルパート・ハクスリーの弟だった。
……本当の名前を言ったのね。
ミス・カルーの泣き言を聞き流しながら、メアリーアンは思った。そうだと思っていたけれど、本当であったことがじんわりと嬉しい。
そして、嘘の名を告げなかった自分が誇らしく思え、真実を見抜けたことに嬉しさは輝きを増す。
けれど。窓の向こうの青空、そこに雲を追いながら思う。
それどころではない事情を、かわいそうに、彼は抱えているんだわ。
「とにかくメアリー様、お召し替えをお急ぎください。この上パーティに遅れるようなことがあっては、私の仕事は失敗です」
はいはい。わかっています。
今回の旅の為だけの臨時雇いのミス・カルーが、この仕事を成功裡に収め、次への布石にしたいと思っていることだってわかっている。
――ずるい娘だ
彼の、アルジャノンの声が聞こえた。真新しい服に、メアリーアンはため息を落とす。ミス・カルーが眉を寄せた。ため息を吐きたいのは、こちらの方が余程。
しかしメアリーアンにも彼女なりに、極めて深刻な理由があった。
十四になる。もう、残された時間は少ないようだ。
アルジャノンを恨めしく思った。筋が違うと思いながらも、彼にひとつ、魔法を解かれたような気持ちになっていたから。
晴れ渡る空の下、あふれるほどの花に囲まれ、式次第は恙無く運ばれていった。
ハクスリーの長の歴史の中で育まれてきた仕来りにのっとり、若い二人は絆を結ぶ。
代々の当主が一つずつ加えていったのではないかと思うほど、盛りだくさんの儀式的動作が重ねられた果てに、やっとお楽しみのガーデンパーティ。
太陽も緑も穏やかな風も、すべてが祝福ゆえの装置のよう。端のほうのテーブルのひとつで、山盛りの菓子類を前にしながら、娘らしくもなく、メアリーアンのフォークは動きが鈍い。
三人の様子が気になってならないのだ。
幸せそうな花婿、幸せそうな花嫁、幸せそうな、その弟。なにも聞かずに見たならばそれだけのものだったのに、アルジャノンの言葉を聞いてしまったら、あるはずのものを探してしまう。
ないと思えない。ただの勘繰りなのかもしれないのに。親しそうに笑い合う花嫁と、義弟。でも、花婿と顔を合わせるとき、彼女はもっとも輝いて見える。
アルジャノン一人の勝手な想い。それならそれでそのほうかいいと思ってしまうのは、アルジャノンには申し訳ないけれど。
花嫁の白いレース、白に薄紅の薔薇の花、瑞々しいアイビー、それらが彩る金の髪――……
「メアリーアン」
とん、と手の甲を叩かれた。向かいに座ったクリストファーの、手袋をした白い指が戻っていくのを見る。
「そのしかめっ面を止しなさい。こんなに可愛い娘が居りますと自慢しに来た大叔母様の気持ちも考えてやるといい」
言うだけあって、彼は爽やかな笑顔だった。特定できない誰かのどこからかの視線をいつ受けても良いようにはり付いたそれは、当然、話の内容とは合っていない。
「そんな笑顔、見る人が見たら心がないことくらい見抜かれてしまうわ。あなたこそ私なんて放っておいて、そこここのご令嬢のお相手をして差し上げてこなくちゃ。それこそ大叔母様が悲しむわ。私より先に、まずはあなたよ」
「僕たちはどうも不肖の子どもたちだね。まぁここで、せいぜいアピールに務めよう」
「何をアピールするの?」
「僕らが結婚するかもしれない仲だということ、とかね」
「え、そうなの?」
「いとこ同士だから。君以外に興味はないと思わせておけば楽だろうな。もっとも今の君と僕が仲の良いところを見せたところで、微笑ましいだけだろうけれどね」
「優しいお兄様と子ども、と言いたいのね。さっき、あの人に似たようなことを言われたわ。自分では標準的な十四だと思っていたけれど、違うみたい。正直なところを言うと、そんなことは考えたこともなかったのだけれど」
おどけて言ったメアリーアンには、返ってきた答は意外だった。クリストファーは響きも単調に、こう言ったのだ。
「彼のことは忘れなさい」
「え」
聞き違えたかと思った。けれど、そうではないことなら、目を見ればわかる。
「どうしてそんなことを言うの?」
「願わくば君がお近づきにならないで欲しい人間の最高峰だからだ」
「……悪い人だとは思わなかったわ」
だからだよ。
彼は続ける。
「彼の考え方は常に危険だ。僕は好きではない。だから君には関わらないでもらいたい。お願いを聞き入れて戴けない場合は、命令に切り替えようと思うくらいに真剣に」
いつもと変わらずに滑らかながら、クリストファーの言葉には充分な決意の程が感じられた。それを確かに受け取りながらも、メアリーアンはしばらく考える。
彼女には彼女なりの筋があるのだ。反することなら譲れない。
やがて出た結論は、
「わかったわ、クリス。大丈夫よ。もう会うこともない人よ」
クリストファーは目を細めて従妹を見ながら、とってつけたみたいに鷹揚に、
「君の言葉に期待しているよ」
「お父様みたいな言い方ね」
「立場は同じだ。君の保護者だよ、メアリーアン」
はい、ともう一度、少女のメアリーアンはうなずいた。
父親にするよりも自分に対してのほうが、よほど素直に言うことを受け入れる。全幅の信頼は、手放しの愛情を信じてもいるからだろう。
しかし、それはメアリーアン、自分は無責任な保護者であるからできることなのだ。
親であれば、言われたくないことも言う。子どもの将来を考えて為を思い、厳しく躾けようとするものだろう。
お従兄様は決してそこまで踏み込みはしない。すべては暗黙のうちに取り交わされる。懐深い闇をやわらかな手探りで進む。
激しい拒否や食い違いが存在せずにいるのは、甘く相対しているからだ。
覚悟がないわけではない。生涯、君を守るだろう。
君が望む君で居続けるように。僕のために。つまり、自分が心地よく生きるために。だから。
――自分の為だ。




