3.
「キーツね」
彼が薄く目を開く。
「あなたの字?」
「うん? 字? いや……それはね、ルパートの字。ルパートはね、兄だよ。今日の花婿」
「じゃあ、花婿さんが花嫁さんのためにこの詩を選んだのね?」
「そう、彼がね。これがいい、これがいいって騒ぎ立ててさ。でもねぇ、僕にだって選べたよ。僕はこの詩を詠んだやつ、こいつは彼女を知っているんじゃないかと思ったね。ここに登場する乙女、これはそのままローラだよ。彼女を描写したとしか思えない」
わかるかな。言葉の勢いそのままに、彼は跳ね起きた。
「髪の色も、光に輝く微笑みも、仕草のひとつひとつ。それがただローラなんだ。君、彼女に会った?」
「いいえ。花嫁さんの姿はお式までは秘密でしょう?」
「そんな決まりだったっけ?」
「少なくとも、縁戚でもない子どもは覗かせてもいただけないわ。どんな方なの? きれいな方ね?」
それはもう。一度では足りないとばかりに何度もうなずいて見せる。
「ローラはね。僕の前に現れたときから、ルパートの婚約者だったんだ。最初の最初からだよ。でも、僕はすぐに好きになった。
友達になるより前に大好きになったよ。素敵な娘なんだ、きれいで優しくて笑顔が可愛い。完璧。最高だ。理想が服を着て歩いてる。何を言っても追いつかない」
「完璧?」
「そうだとも、彼女だけだ。他の誰でも話にならない。あの時からずっと、僕がどんな努力をしてきたと思う? 誰でもいいから好きになろうとして。
ローラでなければ誰でもいいんだ。それなのに、誰だろうとこの心は動かないんだ。風は吹かない、そよ、とも一度も」
大仰な手ぶりは朗誦家気取り。それをまた小馬鹿にしたような笑みを浮かべてはいても、本心であることは充分すぎるほどに透けていた。
「あなたがそう思っているの、ローラさんは知っているの?」
見ぬふりが思いやりだとは、まだ知らない。少女の深刻に曇る瞳を向けられて、彼はつまらなそうに広げた両手を落とす。そして再び、不貞腐れたように声は低く、
「たぶんね。気付いてるよ」
「もしかして、……伝えていないの?」
「言えないよ。言葉にしてはいけない。だって、彼女は兄のものなんだから」
「そうでしょうけれど、でも……」
彼の目がまた空に向いた。メアリーアンは彼を見続ける。抜けるような空では、鳥がまた鳴いたようだ。けれど遠い。まるで、思い出の中の音のように。うわ言のような声が言う。
「――誰にも言ってはいけないよ? ローラも僕を愛している」
「……それは、困ったこと、よね?」
「ねぇ。困ったよ」
だって、とメアリーアンは声を上げた。
「だって、もうすぐ」
それも、もう数時間のうちには、
「ローラさんは結婚しちゃうでしょう?」
その為にあの大勢の人たちはここに集まり、さらに大勢の使用人たちが、準備に走り回っている。
メアリーアンは振り向けなかった。向けば壮麗な館が見えるだろう(一部分だろうが)。館の壮大さが彼の家の歴史を表し、式の規模の大きさがその重要性を語っていた。
彼の採るべき行動は決まっている。選択肢などないも同然、これは仕方のないことなのだ。だから。
「うん。そうなんだ」
そう投げるしかない。でも。メアリーアンは身を乗り出し訴えた。うなずけることではない。こちらこそ決して。
「でも、二人が同じ気持ちなら、このままではダメでしょう? だって、もうすぐ、すぐよ?」
「気持ちがいったい何になる? どうにもならないんだよ、もう」
手に手を取って逃げ出すのなら、急いで荷物をまとめて、いいえそうではない、荷物なんてどうでも、こんなところで寝転がっている時ではない。
今すぐ駆け出し、花嫁を花婿のもとから奪還して、馬車を……。
そこまで考えて立ち止まる。花嫁を花婿から……。
ここで初めて、花嫁が実体となった。ローラという名の女性に考えが至る。彼は思い人である花嫁に、気持ちを伝えたことはない。
では彼女は? 純白のドレスをまとい、祭壇に向かおうとしている彼女の胸の内は――?
「ローラさんがあなたを好きだって、どうしてあなたはそう言うの? 打ち明けてはいないって言ったわ」
お嬢ちゃんだな。やっとこちらを向きはしたが、アルジャノンの視線は斜だ。
「そんなことなら言わずもがなだ。僕と目を合わせたときのローラの瞳、あれで違うだなんて思えない」
つまり、あなた方は、二人でそのことについて話し合ったことはない?
恋を知らない十四の娘だからこそ、極めて現実に即した質問。それを口にのせようとしたところで、場は壊れた。
草を分ける音が近づいて来ている。メアリーアンは身を縮め、
「来るかしら」
囁く。彼はそれを可笑しそうに見遣り、
「来るよ」
辺りに視線を走らせたところで、隠れるところなどあるわけがないのだ。彼の背では、姿ははみ出してしまうだろう。
草を掻き分けて走って逃げるか、――そうしたところで、起こることは同じだろう。ほんの数分、先に延ばせるというだけで。
現れるのが誰であろうと、それがどういう結果となるのかはわからない。わからないから怖い。原始的な怯えだ。
狩られるものの気持ちを、今たっぷりと味わっている、と思ったところで、目の前の草が二つに割れた。




