第5話 Backstage in Dissonance
「倉田さん、ちょっと」
翌日。事務所のフロアで、三好真美に呼び止められた。
四十五歳。ベテラン女子アナ。
いまは報道番組のキャスター。倉田とは長い付き合いだ。
若い頃は情報番組もバラエティもやって、今は報道にいる。
華やかな現場も、汚い現場も、男が女を雑に扱う瞬間も、女がそれを笑って受け流すしかない瞬間も、たぶん全部見てきた人だ。
だからこの人の前では、業界人ぶった軽口がいちばん効かない。
「なんすか」
真美は倉田の顔を一度見て、口元だけで笑った。
笑ったというより、“答え合わせ”をした顔だった。
顔色、目の下、返事の速さ。
そういうもので人の内側を読むのに慣れている顔。
「あのミュージシャン。一柳さん。やられちゃいましたね?」
図星だった。
倉田は返事をしない。
返事をしないまま、目線だけが逃げる。
昨日の楽屋の扉が、頭のどこかでまだ閉まりきっていない。
謝るつもりで入って、結局また自分の都合で距離を詰めたこと。
その失敗を、たぶん顔にぶら下げたまま出社していた。
真美はそういう反応を、何度も見てきた。
男が痛いところを突かれた時、どういうふうに黙るかを知っている。
真美はニヤリとした。
「倉田さんの“いつもの手”が通じない相手って、初めてでしょう? だから面白い」
「……からかわないでくださいよ」
「からかってない。心配してるんだよ」
真美は自販機の前に立ち、ブラックの缶コーヒーを買った。
硬貨が落ちる音。ボタンを押す音。缶が転がる音。
そのどれもが妙に乾いて聞こえる。
彼女は缶を取り出し、プルタブを引いた。
ためらいがない。
この人は、現場の汚れも、そこで生きる人間の弱さも、全部見たうえで報道をやっている。
だから余計な言い回しをしない。
慰める時も、まず事実から入る。
「あんた、今までずっと楽してきたからね。肩書きと口八丁でなんとかなってきた。でもあの人は違う」
倉田は苦笑いを作りかけて、やめた。
作る意味がないと思ったからだ。
真美の前では、そういう小細工は割に合わない。
笑ってごまかせる相手じゃないし、ごまかしたところで、余計に見透かされるだけだ。
「あの人は“中身”を見てる」
「中身って」
「あなたの“中身”」
真美は缶を片手に持ったまま、倉田を見た。
「ディレクターとしての仕事。面白いかどうか。誠実かどうか。飾らない自分で向き合えるかどうか」
言葉はきついが、誇張はない。
真美は人を必要以上に盛らないし、必要以上に落としもしない。
ただ、見えているものをそのまま置く。
それができる人間は少ない。
たいていは、相手を傷つけないためか、自分が嫌われないために、どこかをぼかす。
真美はぼかさない。
ぼかさない代わりに、言ったことに責任を持つ。
「それだけじゃないね」
そこで一拍置く。
倉田の顔を見て、確信したみたいに続ける。
「惚れてる」
倉田は息を詰めた。
「……は?」
「“いつもの倉田”の興味じゃない。落としたいとか、勝ちたいとか、そういうやつじゃない」
真美は淡々と言った。
「ちゃんと、片思いしてる顔してる」
言い切られると、否定の言葉が出てこない。
倉田は自分の頬が熱くなるのを感じた。頬が中学生みたいに赤くなっていく。
情けなかった。三十代半ばの男の反応じゃない。
でも、図星を突かれた時の身体は、年齢に合わせてくれない。
「やめてくださいよ……」
「やめない。だって、あんた今までそういうの、なかったでしょ」
真美はコーヒーを一口飲んだ。
苦い顔もせず、ただ飲む。
彼女の中では、苦さは味の一部だ。
避けるものじゃなく、引き受けるものとしてそこにある。
「倉田さん。あんたが今までやってきたのって、“女の子を口説く”じゃなくて、“女の子を現場で回す”だよ」
倉田は黙った。
その言い方は、あまりにも正確だった。
「相手の欲しい言葉を渡して、相手の反応で自分を楽にする」
「それが出来るから、仕事も回る。だから誰も止めない」
倉田は何も言えない。
“止めない”のが優しさみたいな顔をしている現場を、倉田自身が作ってきた。
軽く褒める。軽く触る。軽く約束する。
相手が笑えば成立。
笑っているなら問題ない。
そういう理屈で、いろんなものを通してきた。
でも本当は、笑っていることと、嫌じゃないことは同じじゃない。
波風が立たないことと、正しいことも同じじゃない。
そんな当たり前のことを、今さら別の人間に教えられている。
「でも、一柳さんには効かない。効かないどころか、あの人には“雑”に見える」
真美はそこで少しだけ声を低くした。
「その雑さ、国際感覚だと普通にアウトだからね」
倉田の胸の奥が、鈍く痛んだ。
昨日、楽屋の扉を開けた時の感触が、いまさら指先に戻ってくる。
ノックのあと、返事を待ちきれずに入ったこと。
謝罪のつもりで、自分が少し楽になる出口を探していたこと。
「私は、日本の女子アナとかアイドルとかじゃないので」と言われた時、何も返せなかったこと。
全部が遅れて効いてくる。
「……わかってます」
やっと出た言葉は、思ったより弱かった。
「わかってない。わかってたら、あんな失敗しない」
真美は言い切って、すぐに声を落とした。
責めるためじゃない。現実を置くためだ。
この人は、相手を潰すために正しいことを言うタイプじゃない。
逃げ道を塞いだうえで、それでも立てる場所を残す。
「でもね、倉田さん」
倉田は顔を上げた。
「今からでも遅くないんじゃない? あなたまだ三十代半ばでしょ。変われるわよ」
その言葉は、慰めというより判断だった。
まだ終わっていない人間にだけ向ける種類の言葉。
見込みがない相手には、真美はたぶんこんなことを言わない。
「変わるきっかけをくれた人なんだから、まずは感謝しなさい」
真美は続ける。
「片思いなら、なおさら。相手の人生を汚さない片思いにしてね」
その言葉だけは、妙に優しかった。
優しいというより、静かだった。
女として言っているのか、先輩として言っているのか、報道の人間として言っているのか、倉田にはわからない。
たぶん全部だ。
全部を通った人間だけが言える種類の静けさだった。
倉田はうなずくことも、笑うこともできないまま、ただ黙った。
でもその沈黙は、逃げじゃなかった。
言い返せないから黙っているのではなく、ようやく言葉が追いつき始めたから黙っている。
相手の人生を汚さない片思い。
その言い方が、胸の奥に残る。
好きだから近づくんじゃない。
好きだから、雑に扱わない。
好きだから、自分の手癖の延長で触らない。
そんな発想は、倉田の中に今までなかった。
真美は空になった缶を、近くのゴミ箱に入れた。
カコン、と軽い音がした。
「ま、せっかく本気で好きになったんなら、少しはマシな男になりなさいよ」
最後だけ、少し笑って言う。
その笑いに、からかいはほとんどなかった。
あるのは、長く見てきた相手への、わずかな期待だけだ。
「なんすか、その『少しはマシな男』って」
「倉田さんの振る舞いは日本以外の女性アナウンサーにはNGでしょ。そこがわからないと一柳さんには恋愛どころか話が出来る同じ世界の人間として見てもらえないってこと。」
真美が去ったあとも、倉田はしばらくその場を動けなかった。
事務所のフロアでは、誰かが電話をしていて、誰かがコピー機の前で紙を揃えている。
いつもの昼の音だ。
何も変わっていない。
でも倉田の中では、何かの呼び方が変わってしまった。
今までなら、“やらかした”で済ませていた。
気難しい相手にミスった。
距離感を読み違えた。
その程度の話として処理していたはずだ。
でも、もうそうは呼べない。
あれは失言でも失策でもなく、自分の雑さがそのまま出た結果だった。
しかも、謝るつもりで踏み込んだ楽屋で、もう一度それをやった。
誠実になりたいと思いながら、誠実さまで自分の都合で扱おうとした。
そのことを、倉田はようやく認め始めていた。
そして、その雑さを初めて真正面から拒絶した相手に、倉田はたぶん、本気で惚れている。
その事実は、情けなくて、遅くて、でも妙にまっすぐだった。
倉田の中で、初めて“次に何をするべきか”が、輪郭を持ち始めていた。
口説くことじゃない。
取り返すことでもない。
少なくとも、今までのやり方を捨てること。
そして、仕事でしか返せないものを、仕事で返すこと。
それだけが、かろうじて見えていた。




