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My One and Only One  作者: はまゆう


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7/7

第6話 A Minor Confession

それから二週間後。

マキのライブが、東京のジャズクラブであった。

倉田は関係者パスで入った。

仕事ではない。完全にプライベートだ。

そう言い切れることが、逆に少しだけ怖い。

自分が何をしに来たのか、誤魔化せないからだ。

企画のためでも、取材のためでも、番組の下見でもない。

ただ聴きに来た。

その事実だけが、妙に居心地悪く、そして逃げ場がなかった。

クラブは狭い。照明は暗い。

入口を抜けた瞬間、空気の密度が変わる。

酒の匂いはあるのに、酔うための場所ではない。

会話は小さい。笑い声も低い。

客の服の値段と、振る舞いだけがやけに整っている。

日本のテレビの打ち上げみたいな、馴れ合いの熱はない。

ここには別の緊張がある。

音に払う敬意のほうの緊張だ。

倉田はその空気に、少しだけ気後れした。

自分が場違いだというほどではない。

でも、ここでは肩書きがほとんど意味を持たないことがわかる。

テレビディレクター。

その肩書きは、局の廊下や打ち上げの店ではそれなりに効く。

人が少し態度を変える。

若いタレントが媚びてしなだれる。

店員の声が丁寧になる。

そういう小さな変化の積み重ねの中で、倉田は長く“選ぶ側”にいた。東大卒も幼稚舎上がりの慶應卒には引く。

誰に対しても負けは発生しない。

少なくとも、そう思っていた。

でも今夜は違う。

ここでは、誰も倉田を見ていない。

見られるべきなのはステージだけだ。

ステージにマキがいた。

黒のドレス。

ピアノの前に座り、観客を見渡す。

その目は静かで、しかしどこか熱を帯びている。

テレビの収録で見た顔と同じはずなのに、まるで違って見えた。

照明のせいじゃない。

場所のせいでもない。

たぶん、倉田の見方が違っていた。

自分の心臓の鼓動を感じる。

演奏が始まった。

最初の一音で、倉田は息を呑んだ。

テレビの収録では出せなかった何かが、この狭いクラブの中で爆発していた。

爆発しているのに、うるさくはない。

むしろ静かだった。

静かなまま、空間の輪郭だけが変わっていく。

客は全員無言で聴き入っている。

拍手すら惜しむように。

グラスを置く音さえ、誰かが遠慮しているのがわかる。

音楽が流れているというより、音楽の中に客席ごと入れられている感じだった。

倉田は、ここで初めて理解した。

自分は、彼女を“撮れていなかった”。

撮ったつもりではいた。

演奏シーンも押さえた。

インタビューも回した。

独占企画第一弾、ニューヨークで人気の実力派ジャズピアニスト。

そういう言葉に切り分けて、番組として成立する形にはしていた。

でも、それだけだった。

音の中心にあるものを、編集しやすい言葉に分解して、わかった気になっていただけだ。

ディレクターという職は便利だ。

女が寄ってくる。

役者でも、タレントでも、局アナでも。

寄ってくる理由がある。次の枠。次の企画。次の露出。

倉田はずっと、その中で選ぶ側だった。

いつも選ぶ側。自分が選ばれない側に回ることはない。

傷つくことはない。立場が守ってくれる。

でも、いま目の前にいるのは、そういう相手じゃない。

音が、こっちに一切媚びない。

「わかってほしい」とも言っていない。

「好きになってほしい」とも言っていない。

ただ、そこにある。

完璧な体温のまま。

誰に迎合するでもなく、誰を拒絶するでもなく、ただ自分の精度でそこにある。

一曲終わり、彼女は深く息を吐いた。

観客の一人が「ブラボー!」と叫ぶ。

その声に遅れて、拍手が広がる。

マキは小さく微笑んだ。

その微笑みを、倉田は初めて見た。

仕事で何度も顔を合わせていたのに、初めてだった。

つまり倉田はずっと、“彼女の表情”ではなく、“彼女をどう扱えるか”だけを見ていた。

笑うか、笑わないか。

距離が詰まるか、詰まらないか。

こちらの言葉に乗るか、乗らないか。

そんなことばかり見ていた。

人を見ているつもりで、反応しか見ていなかった。

彼女に抱く感情は、落としたいとか、手に入れたいとか、そういう安い言葉ではない。

空を旅してゆく鳥のゆくえをじっとみている様な、浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ。

はかない 淋しい 焼けつく様な

――それでも恋とはちがう。

星を求める蛾みたいな憧れと言うか。うまく言えない。

ただアラフォーのおっさんの恋心より、初めて素敵な汚れのない女の子に憧れたみたいな気持ちだ。


音楽と観客が一体になる一瞬。

その場に立ち会ってしまった人間だけが知る、あの静かな熱。

彼は、それを彼女と共有したいと思った。

それと同時に、静かに悟る。

俺はなんてちっぽけなんだろう。彼女には到底、値しない。

釣り合うわけがない。

運が良ければ隣に座れる。

近づけた“感じ”は作れる。

仕事の打ち合わせで食事にも行けるかもしれない。

時々微笑んでくれるかもしれない。。

でもそれは、彼女の世界に入ったことにはならない。

倉田が得意なのは、相手の世界を“自分の現場”に引きずり下ろすことだ。

軽い呼び方、軽い接触、軽い冗談で。

相手が笑えば成立したことになる。

でも彼女はそれを許さない。

許さないというより、最初から受け付けない。

国が違うというより、ルールが違う。

もっと言えば、人としての基準が違う。

その違いを前にして、倉田は初めて、自分の負けを認めた。

悔しいというより、正しい敗北だった。

届かないものを届かないと知ることは、思ったより静かだった。

ライブが終わった。

倉田は拍手をした。

遅れて、でも確かに。

自分が今夜見たものに、経費も企画書も関係ないと認めた拍手だった。

客が少しずつ立ち上がり、グラスの音と小さな会話が戻ってくる。

倉田はしばらく席を立てなかった。

帰るべきか、このまま帰ったほうがいいのか、少し迷った。

前の楽屋の失敗が、まだ身体に残っている。

あの扉を開けた時の、自分の都合の悪さ。

謝罪すら自分のために使った感じ。

忘れたわけじゃない。

それでも、足が動いた。

ライブ終了後。倉田は一旦外に出て花を買ってきた。お決まりの胡蝶蘭や艶やかな花束でなく、彼女の服装に合わせて持って帰れる大きさの深紅の薔薇と霞草の花束。こんなの買ったのは初めてだ。百合にしようと思ったら、店員さんが花束の大きさから言って薔薇がおすすめだとアドバイスしてくれた。買ってる間もドキドキして頬が昂揚しているのがわかった。

楽屋を訪ねた。

――本当は、訪ねる資格なんてない。

それでも行く。

資格じゃない。

癖でもない。

たぶん、もう少しだけ“まともになりたい”という欲だ。

前みたいに、自分を軽くするためじゃなく。

少なくとも、そうであってほしいと思いながら。

扉の前で立ち止まる。

今度は、ちゃんとノックをした。

返事を待つ。

短い沈黙のあと、「はい」と声がする。

その一拍を、倉田は前より長く感じた。

「一柳さん」

扉を少し開けると、マキがこちらを見た。

ライブ後なのに、顔は不思議なくらい静かだった。

汗も熱も、もう内側に戻してしまったみたいな顔。

「……倉田さん。どうして」

「仕事じゃないです。ただ、聴きたくて」

花束を不器用に差し出す。それだけ言う。

言い訳を足さない。

企画の参考に、とか。たまたま近くに来て、とか。

そういう逃げ道をつけなかった。

つけた瞬間、また全部が軽くなる気がしたからだ。

彼女は少し驚いた顔をした。

初めて見る表情だった。

「……素敵な花束。ありがとうございます」

沈黙が数秒続く。

倉田はこの沈黙を、無理に埋めなかった。

埋めればまた“いつもの手”が出る。

冗談を言う。空気を軽くする。相手を安心させたふりをして、自分が安心する。

その回路を、今日は使わない。

沈黙に耐えるのは、彼にとっては珍しい努力だった。

「あの」

倉田は言った。

「最初に戻れないのはわかってます。でも――これからは、ちゃんとしたいです」

マキは何も言わない。

倉田は続ける。

「あなたの音楽を、ちゃんと扱いたい。軽く扱ったりしません。約束します」

言いながら、約束なんて簡単に口にするな、と自分でも思った。

でも、今はそれしか言えなかった。

好きだとか、すごいとか、そういう言葉では足りない。

足りないし、たぶん違う。

仕事で向き合う人間として、最低限そこを言うしかなかった。

マキは彼の目をじっと見つめた。

穏やかな目だった。

でもそこには、以前みたいな拒絶はなかった。

ただ、観察するような静けさがあった。

「わかりました」

短く言ってから、彼女は続けた。

「見せてください。倉田さんの“仕事”を」

それが距離が埋まった証なのかどうかは、まだわからない。

許されたわけでも、受け入れられたわけでもない。

ただ、恋愛の勝ち負けじゃない場所に、ようやく立たされた気がした。

選ぶ側じゃない。

選ばれる側でもない。

ただ、ちゃんとやる側の人間だ。

その場所は、思っていたよりずっとましだった。


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