第4章 Almost Automatic
それから数日、倉田は妙に静かだった。
静か、といっても、仕事を休んだわけじゃない。
会議には出るし、台本にも赤を入れるし、スタッフへの指示もいつも通り飛ばす。
現場での声の張りも、段取りの速さも、外から見れば何も変わらない。
ただ、自分の中だけが少しうるさかった。
一柳マキのことを、考えない時間が減っていた。
考えたところで、答えが出るわけじゃない。
むしろ考えるほど、自分が最初に踏み外したことだけがはっきりする。
上から目線の軽い声で「マキちゃん」と呼んだこと。
肩に手を置いたこと。
あの一瞬で、自分がどういう種類の男かを、彼女に説明してしまったこと。
説明したつもりはなかった。
でも、説明になっていた。
人は言葉より先に、ふるまいで自己紹介する。
倉田はその当たり前を、今さら思い知らされていた。
密着企画の収録は続いていた。
マキは相変わらずだった。
必要な受け答えはする。演奏は完璧に近い。
だが、それ以上はない。
雑談に広がりはないし、こちらが少しでも私的な温度を混ぜると、空気が一段冷える。
露骨に嫌な顔をするわけではない。
ただ、「そこには入れません」とわかる反応を返してくる。
それが倉田にはきつかった。
怒られるより、冷たくされるより、ずっときつい。
相手が自分に期待していないことが、はっきりわかるからだ。
その日の収録は、都内のホールの控室を借りて行われていた。
夜の小さなライブの前、楽屋での準備風景も撮らせてもらう段取りになっていた。
メイク台、譜面台、黒い衣装、ミネラルウォーター、そして例の小さな水筒。
楽屋は広くない。
広くない空間ほど、人の距離感が露骨に出る。
倉田はモニターを見ながら、スタッフに指示を出していた。
「引きはもういい。手元寄って」
「その譜面めくるとこ、もう一回拾える?」
声は落ち着いている。
仕事としては、ちゃんと回っていた。
でも、回っていることと、うまくいっていることは違う。
倉田はその違いを、ここ数日ずっと噛まされていた。
収録の合間、マキが一人で楽屋に戻った。
スタッフが機材の位置を調整しているあいだ、数分だけ空きができる。
倉田はその背中を見送ってから、少し迷った。
今なら話せるかもしれない、と思った。
いや、話すなら今しかない、と思った。
そういうふうに、自分の都合を“タイミング”と呼ぶ癖が、まだ抜けていなかった。
謝ろう。
ちゃんと。
この前のことを。
最初の失礼も、肩に触れたことも、全部。
そう思った時点で、倉田はもう半分、自分を許していた。
謝罪を決意した人間は、ときどきそれだけで誠実になった気になる。
楽屋の前に立つ。
扉は閉まっている。
ノックをする。
返事はない。
中で物音がした気がして、倉田はもう一度ノックした。
「一柳さん? 倉田です」
少し間があってから、「はい」とだけ返ってきた。
その短さに、歓迎の気配はない。
でも倉田は、それを拒絶とは受け取らなかった。
受け取らないようにした。
扉を開ける。
マキは譜面を整理していた。
黒いケースの上に紙を揃え、順番を確かめるみたいに指先で端をそろえている。
鏡の前には座っていない。
メイクを直すでもなく、スマホを見るでもなく、ただ譜面に触れている。
その姿が、妙に私的で、倉田は一瞬だけ後悔した。
入るべきじゃなかったかもしれない、と。
でも、もう入ってしまっている。
「なんでしょう」
マキは顔を上げた。
声は平坦だった。
怒ってはいない。
怒っていないからこそ、倉田は余計に居心地が悪い。
「あの……この前のこと、ちゃんと謝ってなかったなと思って」
頬が赤くなっていくのを感じる。ドキドキして声がうわずっている。
「この前?」
「最初のリハの時。呼び方とか、その……触ったりしたこととか」
言いながら、自分の言葉が急に安っぽく聞こえた。
“呼び方とか、その……”
雑な人間が、雑なまま謝ろうとすると、謝罪の言葉まで雑になる。
マキは少しだけ首を傾けた。
「別に気にしてませんよ」
その返しに、倉田は一瞬だけ救われそうになった。
許された、と思いかけた。
だが次の瞬間、その考えがどれだけ浅いかを思い知る。
「倉田さんはそういう世界の人なんですよね」
声の温度は変わらない。
責める調子でもない。
柔らかく微笑んでいる。
ただ、観察結果を述べるみたいに言う。
「私、そういうのは慣れてないので」
倉田は言葉を失った。
慣れてない。
その一言で、自分が“慣れている側”の人間だと突きつけられる。違う世界で生きてきたことを突きつけられる。
軽く呼ぶこと。軽く触ること。軽く距離を詰めること。
それを現場の潤滑油みたいに使ってきた側。
「どういう意味ですか」
聞き返したのは、半分反射だった。
本当は意味なんてわかっている。
わかっているのに、言葉にしてほしかった。
言葉にされたほうが、まだ反論できるからだ。
マキは譜面を置いた。
倉田を見る。
「そのままの意味です」
一拍置いてから、続ける。
「私は……日本の女子アナとかアイドルとかじゃないので」
その言葉は、倉田の胸の奥にまっすぐ入った。
女子アナとかアイドルとか。
彼女はそこを雑に言ったわけじゃない。
倉田のふるまいが、どういう相手に対して習慣化されているかを、正確に言い当てただけだ。
しかも、軽蔑のためじゃなく、区別のために。
私はそこに含まれない。
だから同じやり方で来ないでください。
そういう意味だった。
倉田は何か言おうとした。
違う、と。
そんなつもりじゃない、と。
あなたは特別だ、と。
でも、そのどれもが最悪だとわかった。
“特別”なんて言葉は、こういう場面で男が自分を救うために使う言葉だ。
相手のためじゃない。
自分がただの雑な男じゃないと証明したい時に使う言葉だ。
「……すみません」
結局、それしか出なかった。
マキは微笑して小さくうなずいた。
許したわけでも、受け入れたわけでもない。
ただ、会話を終わらせるためのうなずきだった。
その時、廊下の向こうでスタッフの声がした。
「一柳さん、そろそろお願いします」
タイミングの悪さに、倉田は少しだけ救われた。
これ以上ここにいたら、もっと何かを壊す気がした。
「じゃあ……失礼します」
扉を閉める。
閉めた瞬間、背中にじわっと汗が出た。
冷房の効いた廊下なのに、首の後ろだけ熱い。
倉田はそのまま、しばらく動けなかった。
謝るつもりだった。
ちゃんとしたかった。
でも結局、自分のタイミングで楽屋に入り、自分の都合で謝罪を始め、自分が少し楽になる出口を探しただけだった。
それを“誠実”と呼ぶのは、あまりにも都合がいい。
収録が再開しても、倉田はどこか上の空だった。
マキは何事もなかったみたいにピアノの前に座り、演奏した。
音は正確で、強くて、少しも揺れない。
さっきの楽屋の会話が、彼女の中ではもう処理済みなのだとわかる。
引きずっているのは倉田だけだった。
打ち上げの声がかかったのは、収録が終わったあとだった。
スタッフの一人が明るく言う。
「一柳さん、今日このあと軽くどうですか?」
マキは譜面をケースにしまいながら、顔も上げずに答えた。
「パスします。疲れてるので」
丁寧だが、余地のない断り方だった。
倉田はその声を聞きながら、自分も何か言うべきか迷った。
せっかくだし、とか。少しだけでも、とか。
でも、もう何も言えなかった。
言えばまた、自分の都合を“場の流れ”に偽装するだけだ。
打ち上げの後、倉田は一人で飲んだ。
店はどこでもよかった。
カウンターがあって、酒が強ければよかった。
ウイスキーを頼む。
ワイルドターキー マスターズキープ ビーコン
また、あの銘柄。
マキが水筒に入れていたのと同じやつ。
ここまでくると、真似というより執着だった。
グラスを傾ける。
喉が焼ける。
でも、何も流れていかない。
頭の中で繰り返される。
「私は、女子アナとかアイドルとかじゃないので」
あの言葉は、職業の違いを言っているだけじゃない。
扱われ方の違いを言っている。
倉田がこれまで“通じるもの”として使ってきた雑さが、誰に対して成立してきたのかを、突きつけている。
もし最初に戻れたら、と思う。
あの渋谷のスタジオに戻って、軽く呼ばず、軽く触れず、ただ一人の音楽家として彼女に向き合えたら。
結果は違ったのか。
わからない。
でも少なくとも、今みたいに、自分の雑さだけがくっきり残ることはなかったはずだ。
倉田はグラスの中の氷を見た。
少しずつ溶けて、酒が薄くなる。
時間が経てば、角は取れる。
たいていのことはそうだ。
でも今日の失敗は、薄まる気がしなかった。
むしろ、時間が経つほど輪郭がはっきりしていく。
倉田はそのことに、静かに酔いが醒めていくのを感じていた。




