第3話 Dinner in Minor Key
翌日。倉田は都内のスタジオで、別の収録を回していた。
昨日の夜の焼肉の匂いが、まだ身体のどこかに残っている。
煙じゃない。もっとべたつく種類の残り香だ。
酒と脂と、曖昧な会話と、テレビ局名の領収書。
シャワーを浴びても落ちないものがあるとしたら、たぶんこういう類のものだ。
松嶋エリカ。二十歳。
いま一番勢いのある若手女優。ドラマ主演が決まり、その取材のディレクションを倉田が担当している。
雑誌、配信、番宣、SNS用の短尺動画。
売れている女優には、露出の導線が何本もある。
その一本一本に、現場の人間が群がる。
倉田もそのうちの一人だが、少なくとも自分では、群がっているつもりはない。
仕事をしているだけだと思っている。
そう思える程度には、この業界の空気に馴染んでいる。
現場の空気は軽い。明るい。忙しい。
スタッフが走り、ヘアメイクが髪を直し、スタイリストが衣装の裾を整える。
照明の熱、モニターの白い光、誰かの笑い声。
こういう現場では、テンポが正義だ。
止まらないこと。重くしないこと。空気を悪くしないこと。
そのためなら、多少の雑さは“愛嬌”として流通する。
そして、こういう空気の中で倉田はずっと上手くやってきた。
「倉田さん、お久しぶりです!」
エリカは弾けるみたいに言った。
白い歯を見せて笑う。声が明るい。立ち姿まで画になる。
若い女優というより、すでに“若い女優という商品”として完成されている感じがある。
本人の資質もあるだろうし、周囲がそう仕上げた部分もあるだろう。
どちらにせよ、現場で求められるものを、彼女はよく知っている。
去年、バラエティ番組で一緒に仕事をした。
その時の倉田は“いつものやり方”で接した。
肩や腰に手を回し、冗談を言い、距離を縮めた。
エリカは嫌がらず、むしろ楽しそうに応じた。
笑うべきところで笑い、甘えるべきところで甘え、場を白けさせない。
それは若さというより、技術だった。
成立してしまう関係は、最初から“成立するように作られている”。
「エリカ、今日もかわいいね」
倉田は半ば反射でそう言った。
口が覚えている。こういう現場で、こういう相手に、こういう言葉を置くタイミングを。
褒める。軽くする。相手を気分よくさせる。
それで場が回るなら、誰も損をしない。
少なくとも、そういう理屈でここまで来た。
「もう、倉田さんはすぐそういうこと言うんだから」
エリカは笑って、倉田の腕をポンと叩いた。
完全にスキンシップが成立している。
これが“うまくいっている”状態だ。
少なくとも、この国のテレビの現場では。
「うまくいっている」と言う時、そこに“正しさ”が含まれるとは限らない。
ただ、波風が立たない。スタッフが安心する。クライアントが喜ぶ。
タレントも笑っている。ディレクターもやりやすい。
だからそれは、正しいものみたいな顔で残り続ける。
誰も立ち止まって、「それ、本当に必要ですか」とは聞かない。
聞いた瞬間、空気が悪くなるからだ。
空気を悪くする人間は、だいたい先に嫌われる。
収録中も順調だった。
エリカはプロフェッショナルで、指示を正確にこなす。
笑顔も完璧。NGもほとんど出さない。
カメラが寄れば寄るほど、彼女の顔は“商品としての完成度”を増していく。
角度を知っている。間を知っている。
どこまで無邪気に見せて、どこで少し大人っぽく落とすかも知っている。
倉田はそれを“才能”だと思う。
現場を回す側にとって、扱いやすいことは、才能だからだ。
もちろん、それだけじゃない。
彼女は努力もしているし、頭もいい。
でも最終的に現場で評価されるのは、「使いやすいかどうか」に回収されがちだ。
倉田自身、その回収の仕方に何の疑問も持ってこなかった。
――なのに。
倉田の頭の片隅には、ずっとマキの静かな目があった。
あの目は、評価じゃない。判定だ。
「それはアウト」と、静かに線を引く目。
怒っているわけでも、傷ついているわけでもない。
ただ、そこにある基準に照らして、倉田を分類しただけの目。
だからこそ、あとを引く。
感情でぶつかられたほうが、まだ処理しやすい。
でもあの目には、処理の余地がない。
もし今、ここにマキがいたら。
彼女はどう思うだろう。この軽いやり取りを。
この、褒めて、笑って、触れて、場を回す感じを。
この、誰も困っていないから問題ないことになっている空気を。
また「日本のテレビですね」と世界を分けるんだろうか。
たぶん、事実としてそう言うだろう。
その想像をした瞬間、倉田の喉の奥が少しだけ苦くなった。
自分が“普通”だと思っていたものが、外から見れば、ただの雑さだと気づいてしまったからだ。
しかも、その雑さは悪意の形をしていない。
善意と愛嬌と段取りの顔をしている。
だから厄介だ。
自分でも長いこと、問題だと認識しないまま使えてしまう。
「倉田さん? どうかしました?」
エリカが心配そうにのぞき込む。
心配そうな顔さえ、完璧に可愛い。
目線の角度も、声の柔らかさも、相手に“気にかけられている”と思わせる精度がある。
それを計算と呼ぶのは簡単だが、計算できること自体が能力だ。
倉田は反射で笑いそうになって、やめた。
「あ、いや、なんでもない」
首を振る。
その動作ひとつにも、妙なぎこちなさが混じる。
エリカは一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに切り替えた。
切り替えが早いのも、売れている理由の一つだ。
次のカットの準備で、彼女が立ち位置を直す。
倉田はいつもなら、肩に軽く触れて向きを調整する。
「もうちょいこっち」「そうそう、その感じ」
その程度の接触は、現場では珍しくもない。
誰も止めないし、止めるほどのことでもないとされている。
でも今日は、手が出なかった。
無意識に――今日は、エリカの肩に手を回すのを控えた。
言葉で指示する。
立ち位置を少し右に。顎をほんの少し引いて。目線はカメラの少し外。
それで足りる。
足りるのに、これまでは触るほうが早いと思っていた。
早いし、柔らかいし、場が丸く収まると思っていた。
変化と呼ぶには小さすぎる。
反省と呼ぶには遅すぎる。
それでも倉田は、自分の手癖を、初めて“管理”した。
別に褒められることじゃない。
触らないことは、美徳でも進歩でもない。
本来、最初からそうあるべきだっただけだ。
それでも、倉田にとっては初めてだった。
自分のふるまいを“自然だから”で済ませず、一度止めて見ること。
その一拍が、こんなにも不自然だとは思わなかった。
マキのためじゃない。
自分のためでもない。
ただ、あの目が、頭から離れなかった。
収録は滞りなく終わった。
スタッフは満足そうだったし、エリカも最後まで愛想よく笑っていた。
クライアント受けも悪くないだろう。
何も問題は起きていない。
現場としては成功だ。
なのに倉田の中には、うまく言えない引っかかりだけが残った。
“問題が起きていないこと”と、“何も間違っていないこと”は、同じじゃない。
そんな当たり前のことを、今さら知り始めている自分が、少し滑稽だった。
撤収の空気の中で、エリカが最後にもう一度手を振った。
「倉田さん、またお願いしますね」
「うん、こちらこそ」
いつもなら、もっと軽口を返していた。
今度ごはん行こうよ、とか。次はもっと可愛く撮るよ、とか。
そういう、冗談とも営業ともつかない言葉を。
でも今日は、それ以上が出てこなかった。
エリカは気にした様子もなく、スタッフに囲まれてスタジオを出ていった。
倉田はその背中を見送りながら、ふと思う。
こういうふうに、何も起こらずに回っていく現場のほうが、たぶんずっと多い。
誰も傷ついた顔を見せない。
誰も拒絶しない。
だから、自分の雑さはずっと“問題なし”のまま通過していく。
マキだけが、そこに線を引いた。
それが腹立たしいのか、ありがたいのか、まだわからない。
ただ一つわかるのは、昨日までの自分と同じ調子では、もういられないということだった。
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