第2章:Off Beat
その日の夜。倉田はりりかと食事をしていた。
六本木の高級焼肉店。
「連れて行ってほしい」とねだられて、断らなかった。
断る理由もなかったし、断らない癖もあった。
こういう店は便利だった。
個室がある。肉はうまい。店員の教育も行き届いている。
何より、“仕事の延長”に見える。若い女と二人でいても、店の格が言い訳になる。
打ち合わせです。慰労です。今後の相談です。
言い方はいくらでもある。実際、そういうことにしてきたし、それで困ったこともなかった。
りりかは、上機嫌でメニューを眺めていた。
自称十九歳。実年齢28歳の地下アイドル上がりのバラエティタレント。
業界では“ジャリタレ”と雑に呼ばれる種類の女だが、本人はその雑さごと利用している。
頭が悪いふり、空気が読めないふり、男に甘えるのが得意なふり。
ふり、ということを、倉田は知っている。
知っていて、その芝居に乗る。乗ったほうが場が早く回るからだ。
「倉田さん、今日の収録どうだったんですか?」
肉が運ばれてくる前に、りりかが聞いた。
爪は薄いピンクにデコったワンホンネイル。ピンクがかった銀髪は巻いてある。若い女の“ちゃんとしてる感”が、過不足なく整えられている。
「普通」
「えー、なにそれ。ノリ悪い~」
「別に」
「でもさ、新しいアーティストの人って、可愛いんですか?」
倉田は水割りのグラスを持ったまま、一瞬だけ黙った。
「……可愛いとかじゃない」
りりかは肉を一枚、網に乗せた。
ジュッと脂が鳴る。煙が上がる。
その向こうから、りりかが倉田を見る。
その目が、いつもより少しだけ鋭かった。
“バカっぽさ”で売っている女の目じゃない。
現場で生き残るための目だ。
誰が誰に興味を持っているか。誰が誰を切るか。誰が次の企画に呼ばれるか。
そういうことを、笑いながら見ている目だった。
「倉田さん、なんか変ですよ」
「変じゃない」
「変です。いつももっと軽いのに。今日、なんか考え事してる」
図星だった。
倉田は答える代わりに、ウイスキーをあおった。いいやつだ。
今日の昼、マキが水筒から飲んでいたのと同じ種類を頼んだ。ワイルドターキー マスターズキープ ビーコン。真似みたいで、最低だと思った。
しかも、そう思いながら注文を変えなかった自分が、もっと最低だった。
りりかはその沈黙を、責めるでもなく眺めていた。
若い女は、男の機嫌に敏感だ。
とくに、仕事を握っている男の機嫌には。
「その人、そんなにすごいんですか?」
「……演奏は、すごい」
「へえ」
「でも、面倒くさい」
言った瞬間、自分で違うと思った。
面倒くさいんじゃない。
自分のやり方が通じないだけだ。
通じない相手を、倉田はいつも“面倒くさい”と呼んできた。そう呼えば、自分の側に問題がある感じが薄まるからだ。
りりかは笑った。
「倉田さんって、面倒くさい女の人、嫌いじゃないですよね」
「別に好きじゃないよ」
「うそ。攻略したくなるタイプでしょ」
攻略。
その言葉に、倉田は少しだけ眉をひそめた。
だが否定できない。
この業界で女と関わる時、いつの間にかそういうゲームの言葉を使うようになっていた。落とす。押す。引く。刺さる。ハマる。
相手が人間であることより、反応する対象であることのほうが先に来る。
肉が焼けた。
りりかは器用に裏返し、自分の皿ではなく先に倉田の皿に置いた。
「はい、どうぞ。今日は元気ないから、いい肉食べて元気出してください」
「気ぃ遣うなよ」
「遣いますよ。倉田さん、偉い人だし」
冗談っぽく言う。
でも、その冗談の中に本音が混ざっている。
倉田はそれを聞き流した。聞き流すのも、こういう関係を長持ちさせる技術だった。
会計が近づくと、倉田はほとんど反射で伝票に手を伸ばした。
金額を確認する。
高いが、驚くほどではない。
この程度なら落ちる。たぶん問題ない。
店員が個室の襖を少し開けて、会釈する。
「お会計、こちらでよろしいでしょうか」
「ああ。あと、領収書ください」
「かしこまりました。お宛名はいかがいたしますか」
倉田は一拍も置かずに答えた。
「テレビ局名で」
言い慣れた声だった。
店員は何の表情も変えずにうなずく。
珍しくもないのだろう。こういう店では、こういう客を毎晩見ている。
りりかが、テーブル越しにそのやり取りを見ていた。
何も言わない。
けれど、その沈黙は見ていないふりではなかった。ちゃんと見て、何も言わない沈黙だった。
倉田はペンを受け取り、宛名を確認するふりをしながら思う。
デート代を経費で落とす。
女と飯を食うのも「打ち合わせ」。
うまくいけば「キャスティングの相談」。
これは犯罪でも革命でもない。ここでは“普通”だ。
普通だから、誰も止めない。
普通だから、自分が腐っているという実感も薄い。
「ねえ、倉田さん」
「ん?」
「私のこと、どう思ってますか?」
突然の質問に、倉田は箸を止めた。
りりかの声は軽い。いつも通りに聞こえる。
でも、その軽さは“逃げ道”でもある。
先に笑っておけば、傷つかない。
本気じゃないふりをしておけば、答えが雑でも耐えられる。
「どうって……いい子だと思ってるよ」
「“いい子”ね」
りりかは笑った。
その笑顔の奥に、引っかかるものが見えた。
倉田は見なかったことにした。
見た瞬間、責任が発生する気がしたからだ。
「次の企画、ちゃんと考えとくから」
「はーい。でも……」
「でも?」
「倉田さんが“考えておく”って言う時は、だいたい忘れるんですよね」
言い方は軽い。
けれど、軽いからこそ刺さる。
倉田は苦笑いをしたが、否定はしなかった。否定できるほど、誠実に覚えていたことがない。
りりかは立ち上がった。帰るらしい。
「おい、まだ肉残って――」
「肉は美味しいけど太るからね。倉田さんが食べてください」
「送るよ」
「大丈夫です。タクシー拾えるし」
軽く手を振って、店を出ていった。
最後まで、明るい女の顔を崩さなかった。
個室に一人残される。
網の上で肉の脂が小さく爆ぜる。
さっきまで賑やかだったテーブルが、急に仕事帰りの残骸みたいに見えた。
皿、グラス、紙エプロン、領収書。
どれも使い慣れたものなのに、今日は妙に汚く見える。
倉田は残された肉を見つめながら、なぜかマキの無表情な顔を思い出していた。
笑わない顔。
触らせない肩。
「触らないでください」という、あの静かな穏やかな拒絶。
あれは拒絶というより、判定だった。
――あなたは、そのやり方で来る人なんですね。
そう言われた気がした。
実際には、そこまで言葉にされたわけじゃない。
でも、言われなかったからこそ、逃げ場がない。
相手を責める余地がない。
ただ、自分のやり方だけが、そこに残る。
りりかには通じる。
エリカにも通じる。
女子アナにも、若いタレントにも、女優にも通じる。
軽く呼ぶ。軽く触る。軽く約束する。
その軽さで場を回し、その軽さで関係を作ってきた。
倉田はそれを“才能”だと思っていた。
少なくとも、仕事に必要な技術だと思っていた。
でもマキには通じなかった。
通じないどころか、一瞬で値踏みされてしまった。
ディレクターとしてではなく、もっと手前の、人間としての雑さを。
倉田はそこでようやく、自分が何を失敗したのかを、言葉にできないまま理解し始めていた。
失敗したのは、口説き方じゃない。
距離の詰め方でもない。
もっと根本の、相手を“自分の現場の流儀に乗せていい存在”だと思っていた、その前提だ。
テーブルの端に置いた領収書を、倉田は指で押さえた。
白い紙は薄い。
こんなもの一枚で、今夜の曖昧さは全部「仕事」に化ける。
そのことが、急にひどく安っぽく思えた。
店を出ると、六本木の夜はぬるかった。
酔いを冷ますには足りない風が、ビルのあいだを抜けていく。
倉田は通りに出て、手を上げた。すぐに一台、黒いタクシーが止まる。
行き先を告げて、シートに身体を沈める。
ドアが閉まった瞬間、ようやく一人になった気がした。
車窓に、ネオンが流れていく。
赤、青、白。
どれも派手なのに、ガラス越しだと少しだけ遠い。
倉田はその光をぼんやり見ながら、またマキのことを考えていた。
最初に会った時の、あの黒。
黒のタートルネック。黒のパンツ。
華やかじゃないのに、目が離せなかった横顔。
「アイドルじゃないので」という声。
握手とも言えない、指先だけの接触。
そして、肩に置いた手を退けられた時の、あの目。
怒っていたわけじゃない。
軽蔑、とも少し違う。
もっと静かなものだった。
採点でもなく、説教でもなく、ただ分類するみたいに、倉田を見ていた。
――この人は、こういう人。
それだけで終わる視線。
だからきつい。
怒られたほうがまだましだった。
怒りには期待が混ざる。相手を変えようとする意志がある。
でも、あの目にはそれがなかった。
変わるかどうかなんて、最初から相手の問題じゃないという顔だった。
タクシーが信号で止まる。
フロントガラスの向こうで、横断歩道を若い女が二人、笑いながら渡っていく。
倉田はふと、自分がこれまで何人の女に、同じような顔をさせてきたのか考えた。
笑って受け流しただけで、本当は引いていた顔。
冗談として処理しただけで、内心では線を引いていた顔。
ただ、マキみたいにそれを隠さない女が、いなかっただけかもしれない。
そう思うと、胃の奥が少し重くなった。
今日、りりかに領収書をテレビ局名でもらった。
あれも、いつものことだ。
誰も驚かない。店員も、りりかも、たぶん経理も。
そういう小さな曖昧さの積み重ねで、この仕事は回っている。
倉田もその回転の中にいて、むしろ上手く泳いできた側だ。
でもマキは、そういう濁りの中にいない。
少なくとも、いないように見える。
だから腹が立つのか。
だから惹かれるのか。
倉田にはまだ、自分でもわからなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
今日の自分は、りりかといても、酒を飲んでも、肉を食っても、ずっと別の場所にいた。
渋谷のスタジオ。
ピアノの前。
あの一言の前と後。
「触らないでください」
たったそれだけの言葉が、何度も頭の中で再生される。
責める調子じゃない。
大声でもない。
だからこそ消えない。
静かな言葉は、酔いでは流れない。
タクシーがまた走り出す。
倉田はシートに深くもたれ、目を閉じた。
iPhoneで一柳マキを検索する。両親ともニューヨーク在住のミュージシャン。父はサックス奏者。母はピアニスト。
倉田は幼稚舎からの慶應の経済を出て父親のコネでTV局就職。日本ではいわゆる「上級国民」、おぼっちゃま育ちだ。いつも選ぶ側だった。誰に対しても優位だった。でもマキを高嶺の花と感じる。マキに対しては自分がゲスで下品で薄汚れた腐ったオヤジに感じてしまう。
もし最初に戻れたら、と思う。
あのスタジオで、軽く呼ばず、軽く触れず、ただ一人の音楽家として彼女に向き合えていたら。
結果は違ったのか。
それはわからない。
わからないが、少なくとも今みたいな後味ではなかったはずだ。
その「少なくとも」が、妙に重かった。
運転手がラジオを小さく流している。
聞いたことのない深夜番組の声が、遠くで喋っている。
倉田は目を開けて、窓に映る自分の顔を見た。
疲れている。
それだけの顔だった。
女に困っていない男の顔でも、仕事が回っている男の顔でもない。
ただ、自分のやり方が急に古く鈍臭く見え始めた男の顔だった。
タクシーは、夜の街を滑っていく。
倉田はもう一度、マキの横顔を思い出した。
笑わない顔。
媚びない音。
触れさせない肩。
その全部が、今さらみたいに胸に残っていた。




