4 やりなおし
ジンジンと叩かれた手の甲が痛む。
「え……」
「でもね、やり直すにはもう遅すぎたのよ。わたくしの手はもう愛する人の血で汚れてしまった。最後まであの人の愛はもらえなかったけれど」
シャーリーン様は床に転がっていたナイフを拾い上げた。血まみれの両手でナイフを構える。
嘘……!? どうして……!?
「お母様! もう人を傷つけるのはやめてくれ!」
「そうです! シャーリーン様、お気を確かに!」
ナヴァロ様とわたしでシャーリーン様の説得を試みる。シャーリーン様はここにいるわたしたち全員を殺して逃亡を図っているのかもしれない、と嫌な予想が脳裏をよぎった。
マリア様はルカ様で手一杯だし、なにより、シャーリーン様にはもう誰も傷つけてほしくない。そんなことをしたって、シャーリーン様は報われない。
「なに言ってるの」
落ち着かせようと必死になるわたしたちに、シャーリーン様は薄く笑った。
本当はこんなに笑顔が絵になる人だったのだと、場違いにも惚れ惚れしてしまう。
「あなたたちには感謝しているのよ。ナヴァロ、エリザベス──そしてルカとマリア」
シャーリーン様はそれぞれと目を合わせながら名前を呼んだ。身構えていたわたしたちは少し拍子抜けしてしまう。
「なら、ナイフを置いて……」
ナヴァロ様が言うと、シャーリーン様は首を横に振った。
「本当は、あの人の横以外にも居場所があったのかもしれないわね」
シャーリーン様の顔がナイフに反射して映る──どこか諦めたような、自嘲したような、そんな薄い笑みが。
「まさか! やめろ!」
何かを察したナヴァロ様が飛び出す。わたしはまだ動けずにいた。
「ありがとう」
しかし、シャーリーン様は言うや否や、ナイフの切先をくるりと自分の喉元に向けて、一気に掻き切った。
「がはっ……」
「シャーリーン様ぁぁぁ!!」
わたしは叫んだ。血飛沫が部屋中に飛び散り、力を失ったシャーリーン様はどさりと床に倒れた。
「お母様!」
ナヴァロ様の手は届かなかった。代わりに、最もシャーリーン様の近くにいた彼は返り血を全身に浴びた。わたしもナヴァロ様に続いて、シャーリーン様を覗き込む。
「そんな、そんなぁぁぁ! いや、いやぁ! わたし、あなたと家族になれると思ったんです!」
彼女の右手を、両手で包み込んだ。シャーリーン様は何も言わない。その瞳は、もう先ほどの光を宿していない。わたしとナヴァロ様の涙が、シャーリーン様の頬に落ちて、流れていった。
これからだったのに。
せっかく、家族になれると思ったのに。
「……どうして……」
目の前で二つも命がなくなってしまう無力感が、マリア様を襲っていた。ルカ様の止血は終わったようで、彼の腹には包帯代わりの白衣が綺麗に巻き付いていた。
「…………」
ルカ様は無言で俯いていたけれど、その頬には雫が流れていた。たとえ嫌いな育ての母親だったとしても、死んでしまっては何か思うところがあるのだろう。
全部、悪い夢だったらいいのに。
もしエヴァレット王がシャーリーン様だけを愛していたら、こんな悲劇は起きなかったのに。
もしみんな一命を取り留めていたら、これから先の未来でやり直せたかもしれないのに。
わたしは涙を止めることができない。時間は不可逆だ。嘆いたって、どうしようもない。
わかってる。
わかっているけれど、願わずにはいられなかった。
「お母様……!」
ナヴァロ様は嗚咽まじりに、最後の言葉を伝える。
「僕は、たとえ駒だったとしても……!」
彼を操る主はもういない。駒扱いする母も、道具扱いする父も。ナヴァロ様は、これから自分の道を、自分の意思で進むのだ。
「あなたのことを母親として慕っておりました……!」
微かに、シャーリーン様が笑ったような気がした。
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