6 企み
キス、されて……?
驚きで目を見開いていると、我に返ったルカ様がバッと離れた。ほんの一瞬の出来事だった。
「……っ! すまない!」
真っ赤になったルカ様は、袖口でわたしの唇を乱暴に拭き取る。リップが白い袖に付いてしまった。
唇の皮がめくれるんじゃないかと思うくらいの力でゴシゴシされる。
「い、いえ……」
わたしは呆然としてされるがままだ。
わたし、ルカ様にキス、を、されたの……? わたしなんかと……? なぜ……?
「本当にすまない。今日はもうゆっくり過ごせ、また改めてきちんと謝罪する」
「ルカ様、待っ」
ルカ様の唇と袖口はわたしのリップで赤く染まったまま、引き留める暇もなく出て行ってしまった。
頭の理解、整理がまったく追いつかない。
ただ残るのは、彼のぬくもりだけ。
わたしは人差し指で自身の唇をなぞる。
「…………」
お互い、本当に好きな人ができたら別れる約束なのに。
契約結婚なのに。
こんな気持ち、不毛なのに。
「顔が熱い……」
わたしはその場にしゃがみ込んで、しばらく動けなかった。
***
「この役立たずがッ!」
パァン!
シャーリーンの執務室に、乾いた音が響き渡った。
「…………」
白い頬に真っ赤な平手の跡を残されても、ナヴァロは何も言わない。
言えない。言い返せない。そういう立場だから。そう育てられてきたから。逆らったところで、意味がないと。
「どうしてあいつらは元気で、一丁前に脅してくるの!? お前はわたくしが言ったことを忘れたのか!? 失敗したのか! このグズがっ!」
激しく唾を飛ばしながら、シャーリーンはナヴァロを怒鳴り続けた。
ナヴァロはスッと目を細める。
どうやらエリザベスに僕を差し向けただろうと脅され、お茶会に連れ出されたらしい。
単刀直入に嫌がらせをやめろ、と言われただけのようだが……この様子ではしばらくまともな会話は望めない。
謝り続けるしかないか。
「申し訳ありません……」
ナヴァロは頭を下げる。その頭を何度か叩いて、シャーリーンの鼻息はようやく静かになってきた。
目も合わせたくないので、九十度腰を曲げたままでいることにした。
「あの小娘どもが……!」
シャーリーンは強い意志を宿したエリザベスを思い出す。
使命感に満ち足りたあの目。人を憐れむような、あの目。それは過去に断罪し、追放した聖女に似ていた。
藍色の髪を持ち、シャーリーンより若く、そして美しかった元聖女。シャーリーンが受けるはずだった王の寵愛は、すべてあの女に奪われたのだ。
嫌な記憶が掘り起こされ、イライラが収まらない。
シャーリーンはぎり、と親指の爪を噛んだ。
「やはり、ルカこそが……」
ただでさえ“派閥争い”をしているのに、エリザベスとかいう余計な女が混ざってきてとても邪魔くさい。
彼女は頭を下げたままのナヴァロの髪の毛を乱暴に掴んだ。無理矢理顔を上げさせられる。
「痛っ……!」
「エリザベスを殺しなさい」
シャーリーンの顔が息の届くところにあった。
ナヴァロ以上に白い肌。切れ長の瞳をこれでもかというほど見開き、小さな瞳孔がナヴァロを捕らえて離さない。
あまりの迫力に、ナヴァロはうなずくことしかできない。
「期限は一週間。できなかったら……殺すわよ」
「……母様の、仰せのままに」
ようやく解放されたナヴァロは足早に寝室へ戻った。誰もいない部屋で、呼吸をする。
……エリザベスを殺せだって!? しかも一週間以内に!?
とんでもない無理難題を提示されたことを再認識して、心臓がドクドクと脈打つ。
僕が人を殺す……!?
……絶対に嫌だ!
そんなことに手を染めたくない! 人を殺めるなんて、僕にできるわけない!
「母様が自分でやればいいのに……」
ボソリ、と呟いて気づく。そうだ、他人に依頼して暗殺を実行すればいい。
使用人でも脅して実行役にさせよう。足がついたら、僕だって母様のせいにするしかない。
──「できなかったら、殺すわよ」
血の気が引いた、というより、人の血が流れていないかのようなシャーリーンの表情が脳裏に流れ、ナヴァロは身震いした。
できなかったら、僕が死んでしまう。
「……やるしか、ないんだ」
あの女が母様を脅したから僕がこんな目に遭っているんだ。あいつが現れてから、全部おかしくなった。あいつが大人しく舞踏会で捕まっていればよかったんだ。
そうすれば全部今まで通りだったのに……!
「エリザベスを消す……!」
ナヴァロの目に、光は宿っていなかった。




