第74話:最後の監査、自分自身への
退職届を提出した、その夜。
エリザベートは、カエルスに「先にお休みになっていて」と告げて、一人で執務室へ戻った。扉に鍵をかけようとして、その手が、止まった。
円卓の脇に、セレーネが、台帳を抱えて立っていた。
「……セレーネ。今夜は、もう、お仕事はございませんわよ」
「いいえ、お嬢様。監査には、立会人と記録係が要ります。被監査対象が単独で決算を行うことは、認められない——お嬢様ご自身が、お定めになった規程でございます」
エリザベートは、しばらく、その無表情を見つめていた。それから、可笑しそうに、息を漏らした。
「……あら。私、自分の規程に、負けましたのね」
「は、お嬢様」
円卓の上に、新しい魔導タブレットが、一台。エリザベートは画面に、自分の名前を入力した。
『被監査対象:エリザベート・フォン・ローゼンベルク・アルカディア。
摘要:通算行動履歴の最終決算。
立会人:S-001』
画面には、あの卒業パーティーの夜から昨日の退職届まで、彼女の全行動が、時系列に並んでいた。指を滑らせても、末尾は、なかなか来ない。
彼女は扇をテーブルの隅に置き、両手を、画面に重ねた。
「……始めましょうか。読み上げてくださいませ」
「は。第一項。婚約破棄の夜。元・婚約者の宇宙規模での破滅。聖女の地下牢送致。王国の、一夜での崩壊」
「過剰反応の度合い、高。ただし、当時の私が持っていた情報量を考えれば、適正範囲。……そう、お書きなさい」
セレーネの筆が、静かに走った。
「第二項。リリアン様の、末路について」
エリザベートの指が、画面の上で、止まった。窓の外の星が、一つ、位置を変えるだけの時間が過ぎた。
「……お嬢様。記録留保、でよろしいですか」
「……いいえ」
彼女は、ゆっくりと、首を横に振った。
「留保は、逃げですわ。『必要以上の残酷。彼女もまた発注された存在だと知らなかったとはいえ、過剰刑罰』。……そのまま、お書きなさい」
「……は、お嬢様」
「第三項。神々の、民営化」
「必要な制度改革でしたわ。後悔は、いたしません。……ただし、あの方々もまた、あの仕組みの中で、疲れておりました。敬意が、足りておりませんでしたわね」
「そのまま、記載してよろしいのですか」
「ええ。私の決算書に、私を庇う行は、要りませんの」
「第四項。元・婚約者と聖女の、電池と街灯への加工」
「再利用ではなく、永遠の屈辱の固定化。決算が済んだのは、ジュリアン様を登録官に迎えてから。それまでの長い年月、私は、あの二人を、不当に放置しておりましたわ」
「第五項。皇帝陛下の、魂契約について」
「……私の、最大の監査ミスですわ」
エリザベートは、初めて、声を落とした。
「あの方は、代価の欄を空欄のまま、私に白紙小切手をお渡しになった。私は、それを、長いあいだ見抜けなかった。……今後、二度と、夫の白紙小切手を許可しない。太字で」
「は、お嬢様」
「……次の項目は、私が申し上げます」
エリザベートは、画面から目を上げた。
「Servant ライン、総出荷九百九十九体。現存、一体。……セレーネ。私が、貴女の姉妹たちのことを知ったのは、いつでしたかしら」
「一年前でございます、お嬢様」
「では、それまでの年月を、私の見落としとして書き入れてくださいませ。『帝国の中枢に、廃棄された九百九十八体の記録が残っていたにもかかわらず、女帝は、それを一度も監査しなかった』。……弁明は、無しで」
セレーネの瞳の光が、一瞬だけ、星のように、揺らいだ。それでも彼女の筆は、いつもと変わらない速さで、その一行を、台帳に写し取った。
「……記載いたしました、お嬢様」
項目は、まだ続いた。国を一つ潰すのに要した時間。神を一柱降ろすのに要した書式。誰かの一生を、三行で処理した回数。
そのどれにも、彼女は、言い訳を書かせなかった。
「セレーネ。欄を、一つ、足してくださいませ。『同じ状況に、もう一度置かれたら、どうするか』」
「……その欄は、監査規程にございません」
「ええ。今、作りましたの」
全項目を埋め終えるころには、夜が、明けかけていた。エリザベートが最後の一行を口述し、セレーネが、それを声に出して読み上げた。
『総合監査結果。
当該人物は、その生涯において、過剰刑罰、見落とし、慈悲の不足を、確かに犯した。ただしその全ては、当時知り得た情報の範囲内で、最善を試みた結果である。過剰さは、彼女が背負っていた、不当な負荷の反映である。
彼女は、世界が冷たかった時期に、冷たくあった。世界が温かくなったので、本日をもって、温かい人間として、生涯の続きを過ごす権利を、取得する。
本日をもって、当該人物の「女帝」としての帳簿を、永久閉鎖する。今後の取引は、ただのエリザベートとして、行う。
承認者:エリザベート・フォン・ローゼンベルク・アルカディア。
立会人:』
「……そこに、貴女の署名を」
「は」
セレーネが、自分の名を、書いた。九百九十九体のうち、ただ一体だけが、この決算に立ち会ったという事実が、その一行に、残った。
エリザベートは、最後の判子を、自分自身の名で、押した。画面が、ゆっくりと、閉じた。
「……ふふ」
「お嬢様?」
「初めてですのよ。自分の決算書を、自分の手で閉じるのは。……この一年で、私は、裁く側ではなく、裁かれる側に、自分を置きましたの。それだけで、覇道の質が、根本から変わりましたわ」
「……は」
「不思議と、涙は、出ませんのね」
ただ、肩の上の、見えない重みが、すっと、消えていた。
窓の外では、夜明けの光が、ヴォイド・コアの尖塔を、下から順に、金色に変えていく。その光を浴びる帝国は、彼女がいなくても、今日も、正確に動き出すはずだった。
エリザベートは立ち上がり、執務室の扉の鍵を、自分の手で、開けた。扇は、テーブルの隅に置いたままにした。明日の朝には、必要のない、道具だった。
寝室では、カエルスが、いつも通り、満ちた魂の温度で、彼女を、待っていた。
「……陛下」
「ん。終わったか」
「ええ。……終わりましたわ」
彼女は、夫の隣に、横になった。
「……陛下。明日、出発いたしましょうか」
「ああ。どこへでも」
その夜、女帝は、夢を見なかった。見る必要が、もう、なかった。
女帝、ご自身の全人生を、たった一晩で、決算なさいましたわ。
自分を罰するでも、慰めるでもなく、ただ誠実に事実を見ていく——本作で、最も穏やかで、最も強い、女帝の姿でしたわね。
そして、その最後の決算に立ち会ったのは、九百九十九体のうち、ただ一体だけ生き残った、あの秘書。書き取る手は、最後まで、震えませんでしたわ。
次回、いよいよ閉幕でございますわ。旅装の女帝が、扇を置いて、玄関を出ます。
【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】、女帝の最終決算に、ぜひ。




