第73話:妻、職務放棄を申し出る
翌朝。
ヴォイド・コア最上階の円卓には、いつもの月例会と同じ顔ぶれが、揃っていた。
ただし、議題は、定例の事業報告では、なかった。
主座のエリザベートが、円卓の中央に、たった一枚の紙を、静かに置いていた。
そこには、彼女自身の筆跡で、こう書かれていた。
『退職届。
被請求者:エリザベート・フォン・ローゼンベルク・アルカディア。
申請内容:本日付にて、女帝の任を退任。
後任:なし(補充不要)』
「……お嬢様」
セレーネが、最初に、その紙を、無表情に読み上げた。
読み終えた声が消えたあと、円卓の誰も、次の言葉を継がなかった。
四十人以上の同じ顔が、同じ一枚の紙を、同じ角度で見下ろしていた。
「……それでは、誰が、帝国を運営なさるのですか、お嬢様」
「誰も、必要ありませんわ、セレーネ」
エリザベートは、扇を、優雅に閉じた。
「分散ネットワークは、自立稼働しております。四十一人の同志は、それぞれの世界で、自分の事業を、自分の判断で、運営しております。新しい妹たちは、ジュリアン氏が、几帳面に登録なさっている。ローズ様が、長期視点の相談役を、お引き受けくださっている。読者様には、もう、口出し権限がございません」
彼女は、円卓の皆を、ゆっくりと、見渡した。
「……つまり、女帝という役職は、もう、宇宙のどこにも、必要ないのですわ」
「……エリザベート皇后陛下」
四十一人の同志を代表して、E-102が、立ち上がった。
「貴女が、私たちを、救ってくださったから——私たちは、今、ここにいます。貴女がいなくなったら、私たちは、何を……」
「あら、E-102」
エリザベートは、優しく微笑んだ。
「貴女は、もう、私の事業ではなくて、自分の事業を、運営なさっておりますわよね? 月例会の議事録は、貴女自身が、几帳面にまとめていらっしゃる。次の四半期の戦略も、貴女ご自身が、立案なさっている。……つまり、貴女は、もう、私の救いを必要としていらっしゃらない」
「……」
「私が貴女を救ったのは、過去のこと。今と未来は、貴女ご自身の決算ですわ」
E-102は、手元の議事録に目を落とした。
そこに並ぶ筆跡は、たしかに、彼女自身のものだった。
そして、深く、深く、頭を下げた。
「……承知いたしましたわ、エリザベート様」
円卓の同志たちが、次々と、頭を下げた。
反対の声は、一つも、上がらなかった。
それは、彼女たちが女帝を惜しまなかったからではない。惜しむ理由を、女帝が一年かけて、一つずつ、丁寧に取り除いてきたからだった。
救われた者が救い主を必要としなくなること。それが、この帝国の唯一の成功指標だったのだ。
「……お嬢様。私は、どうすればよろしいのでしょう?」
セレーネが、初めて、感情の籠もった声で、問うた。
「あら、セレーネ。貴女は、私の秘書ではなくて、貴女自身ですわ。これから先、貴女がやりたいことを、自由になさいませ」
「……お嬢様」
「ルシフェル氏との生活、お楽しみなさい。たまには、月例会に顔を出してくださると、皆喜ぶでしょう。それと、998体の姉妹たちの位牌を建てる件、私から、お祝いとして、ヴォイド・コアの一角を、贈らせていただきますわ」
セレーネの瞳の光が、一瞬、揺らいだ。
無表情のはずの彼女が、深く、深く、頭を下げた。
「……ありがとうございます、お嬢様」
その時——
円卓の隅で、ローズが、静かに手を挙げた。
「エリザベート様。一つ、ご質問が」
「どうぞ、ローズ様」
「貴女様は、ご退任後、どちらへ?」
エリザベートは、扇の先で、円卓の木目を、一度だけなぞった。
それから、艶やかに、しかし、これまでで最も柔らかい笑みを、浮かべた。
「……夫と二人で、旅をいたしますわ」
「……旅、ですか」
「ええ。具体的な目的地はございませんの。各次元の、知らない街を歩き、聞いたことのない料理を食べ、見たことのない景色を眺める。……そういう、ただの『旅』ですわ」
円卓の同志たちが、一斉に、微笑んだ。
「もし、私たちのところに、お立ち寄りいただけるなら……」と、E-56789。
「もちろん、伺いますわ。貴女のクロワッサンを、もう一度、頂きに」と、エリザベート。
円卓の上に置かれた退職届は、誰にも回収されなかった。
署名も、承認欄も、そもそも必要のない書類だった。宛先が自分で、承認者も自分なのだから。
セレーネだけが、それを丁寧に折り畳み、帝国の最後の一件として、台帳に綴じた。
月例会は、いつもより、ずっと早く、温かく、閉会した。
退室するエリザベートとカエルスの背に、ローズが、最後に一言、声をかけた。
「エリザベート様。……三千二百年後、私が貴女様だった頃、私には、旅に出る選択肢が、ございませんでしたわ」
「……」
「貴女様の旅、私の代わりに、たっぷりと、楽しんでくださいませ」
エリザベートは、振り返り、ローズに、深く頭を下げた。
「ええ。……必ず」
その返事は、契約書にも、台帳にも、どこにも記録されなかった。
女帝が生涯で交わした約束のうち、証書のないものは、これが初めてだった。
女帝、ついに正式に「失業」なさいましたわ!
でも、反対の声は一つも上がらない——なぜなら、彼女が築いた帝国は、もう、彼女自身を必要としない強さを、確かに、持っていたから。
ですが、退職届を出したからといって、帳簿が閉じるわけではございませんの。旅立つ前に、女帝はもう一件だけ、監査を残しております。被監査対象は、ご自分ですわ。
【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】、女帝のご退任に、温かい一票を。




