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婚約破棄、承りました。ですが私の管理していた「国家予算」「精霊の加護」「魔導防衛網」は全て私有財産ですので、回収させていただきますわね?  作者: 桐谷ルナ


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第70話:退屈の予兆、女帝の朝

 朝。

 黄金の天蓋に守られた寝室。

 エリザベートは、いつものように、目覚めた。

 いつものように、隣でカエルスが、満ちた魂の温度で、眠っていた。

 いつものように、枕元の魔導タブレットに、手を伸ばした。


 画面には、本日の業務予定が、いつものように、整然と並んでいた。


『本日の業務:なし』

『緊急案件:なし』

『面接予定:なし』

『監査対象:なし』

『新規入荷エリザベート:本日分はジュリアン氏が処理済み』

『四十一人の同志:各自の事業順調』

『ローズ様:相談役として一日読書予定』

『分散ネットワーク:自立稼働中、介入不要』

『読者:本日も、各自の判断でお読みになるかどうか自由』


「……」


 彼女は、指先で画面を上から下へ、二度、撫でた。

 二度とも、同じ九行が並んでいるだけだった。スクロールする先が、ない。


 覇道を歩み始めて、これまで——婚約破棄の朝、王国の崩壊、戴冠式、神々の解体、多次元連合の結成、ファウストとの対峙、自己監査。

 彼女の朝は、常に、何かに追われていた。

 目覚めた瞬間に処理すべき案件があり、朝食までに決裁すべき書類があり、昼までに潰すべき敵がいた。

 追って、追って、追って——気付けば、追うべきものが、何一つ、なくなっていた。


 窓の外では、ヴォイド・コアの朝が、彼女の指示を一つも待たずに、勝手に始まっている。

 それは、彼女が一年かけて設計した、正しい光景だった。


「……陛下」


 エリザベートが、隣の夫の頬を、指先で、そっと撫でた。


「ん……」


「お目覚めくださる?」


 カエルスが、ゆっくりと、目を開けた。

 半分しか持たないはずだった魂が、今は、満ちた温度で、妻の手を捕まえた。


「……どうした、エリザベート」


「私、今朝、初めて、画面を見て、何の感想も湧かなかったのですわ」


「……ふむ」


 カエルスは、起き上がり、紅茶を淹れに行った。

 かつては、この男が湯を沸かす音を、彼女は一度も聞いたことがなかった。皇帝には、湯を沸かす時間がなかったからだ。

 今は、隣の間から、湯の沸く音と、茶葉を量る匙の音が、順番に聞こえてくる。

 戻ってきた彼の手には、湯気の立つ二つのカップが、あった。


「君、ここ一週間、誰かを完封して笑ったことが、あるか?」


「……」


「ないだろう?」


 エリザベートは、答えなかった。

 カップの中の紅茶に、自分の顔が映っている。その顔には、あの「捕食者の笑み」が、一片も浮かんでいなかった。

 そして、ようやく、深く、頷いた。


「……ええ。一週間、いえ、一ヶ月ほど、誰かのざまぁに、心が動かなくなりましたわ」


「それは、ローズ様が抱えていた、三千二百年分の毒だ」


 カエルスは、紅茶を、妻に手渡した。


「退屈、というやつだな」


「……陛下。私、ローズ様と、同じ末路を、辿ってしまうのかしら?」


「いや」


 カエルスは、静かに、しかし確実に、首を振った。


「君には、私がいる」


「……」


「ローズ様の世界線では、私が、彼女に、出会えなかった。ただ、それだけの差だ。……君は、もう、独りで世界を支配する必要は、ない。退屈になったら、夫と、散歩でもすれば良い」


「……散歩」


「そうだ」


「陛下。私、散歩というものを、したことがございませんの」


「知っている」


 カエルスは、こともなげに言った。


「君は、目的地のない移動を、生涯で一度もしていない。会場へ、玉座へ、戦場へ、銀行へ。……君の足は、いつも、どこかへ着くために動いていた」


「……まあ。監査が行き届いていらっしゃいますこと」


「妻の行動履歴だからな」


 エリザベートは、返す言葉を探して、見つけられなかった。

 監査官が、監査される側に回ると、こういう気分になるらしい。


 エリザベートは、その一言を、ゆっくりと飲み下した。

 そして、紅茶のカップを、両手で包み込んだ。

 温度は、彼女の手のほうが、低かった。


「……陛下」


「ん」


「失業の手続きを、開始いたしますわ」


「……正式に、引退するか?」


「ええ。ただし、引退の前に、もう一つだけ、やり残したことがございますの」


 エリザベートは、立ち上がり、寝室のカーテンを、自分の手で、開けた。

 朝日が、満ちた魂と、軽くなった肩の女帝を、静かに、照らした。


「私の覇道を、終わらせる前に——私の覇道に巻き込まれた全員を、一度、お招きしたいの」


「……卒業パーティー、か」


「ええ、陛下。……私の卒業パーティーは、あの夜、ジュリアン様に台無しにされましたから。今度こそ、私が主催する、本物の卒業パーティーを、開かせていただきますわ」


 カエルスが、満ちた魂で、静かに頷いた。


「……それは、いい考えだ」


「準備、お手伝いいただける?」


「ああ。……君のために、宇宙の全花を、買い集めよう」


「あら。買収は、もう卒業なさったのでは?」


「花屋への支払いは、買収とは言わん」


 二人は、朝日の中で、しばらく笑い合っていた。

 女帝の最後の業務——『自分自身の引退パーティーを、主催すること』——が、静かに、始まった。

 その招待状の宛名書きが、ヴォイド・コアで最も忙しい仕事になるまでに、あと三日。

 女帝、ついに「退屈」に直面しましたわね。

 でも、ローズ様と違って、隣にカエルス様がいらっしゃる——その一点が、決定的な差ですの。

 招待状の準備が始まる前に、帝国に、初めての「自然な慶事」が訪れますわよ。申請書を握りしめているのは、あの青ざめたインターン君ですわ。

 【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】、女帝のご引退準備に、ぜひ。

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