第68話:もう一人の私、未来から来た本物
「……はじめまして、と申し上げるのが、正しいのか。それとも、お久しぶり、と申し上げるべきか」
現在のエリザベートは、扇を閉じ、慎重に、未来の自分を観察した。
その姿は、自分と寸分違わない、銀髪の女帝。
ただし、瞳の奥には——ファウストの応接室の油絵で見た、あの「深い欠損」が、まだ、宿っていた。
「お好きにお呼びくださいませ。私のことは、もう、『未来』とお呼びいただいて、結構ですわ」
「では、未来様。お座りくださいませ」
エリザベートは、ソファーを勧めた。
カエルスが、紅茶を淹れた。
二人の女帝が、向かい合って座った瞬間、執務室の温度が、一段、下がった。
「……未来様。本日、いらしてくださった目的を、伺っても?」
「ええ。本題でございますわね」
未来のエリザベートは、紅茶のカップを、自分の前に置いた。だが、口は付けなかった。
「私は、三千二百年前、ファウスト・ヴォイドに『若き日からやり直したい』と、発注書を送りました。……その結果が、貴女ですわ」
「ええ。承知しております」
「ですが、貴女は、私の発注書を、根本から、書き換えてしまった」
未来のエリザベートが、初めて、目を伏せた。
「貴女は、ファウスト様を解体し、ネットワークを分散し、そして昨日、ついに、外側の観測者からも独立した。……つまり、私が三千二百年後にいる、その『未来』は——もう、誰にも、訪れません」
「……ええ。そういうことに、なりますわね」
現在のエリザベートは、扇を、優雅に閉じた。
「未来様。失礼ながら、お伺いいたしますわ。……貴女様は、私を、止めにいらしたのですか?」
「いいえ」
未来のエリザベートは、首を振った。
「私は、貴女に、お願いに、参りましたの」
彼女は、初めて、現在のエリザベートの目を、まっすぐに見た。
その瞳には、傲慢でも、怒りでもなく、ただ、深い、深い疲労があった。
「……私を、消してくださいませ」
現在のエリザベートの扇が、わずかに、震えた。
カエルスが、紅茶を注ぐ手を、止めた。
「……消す、ですって?」
「ええ。私は、もう、三千二百年、宇宙を支配し続けてまいりました。……ですが、貴女が、私の発注書をなかったことにした今、私の存在は、もはや『未回収の請求書』のようなものですの。誰も、私を発注していない。誰も、私の支配を必要としていない。……ですが、私の魂は、まだ、ここに、宙ぶらりんで、残っている」
「……」
「貴女のネットワークに、私を、一粒として、溶かしてくださいませ。それが、私の、最後のお願いですわ」
誰も、口を開かなかった。
卓の上で、未来の女帝の紅茶だけが、湯気を失っていく。
現在のエリザベートは、その冷めていくカップと、目の前の自分とを、交互に見ていた。
「……未来様。一つ、伺ってよろしくて?」
「どうぞ」
「貴女様は、なぜ、三千二百年も、お一人で、宇宙を支配し続けてこられたのですか? ……隣に、誰か、いらっしゃらなかったのですか?」
未来のエリザベートは、答えなかった。
その指が、触れもしなかったカップの縁を、一度だけなぞる。
そして、ようやく、力なく、首を振った。
「……いませんでしたわ」
「カエルス様は」
「私の世界線では、カエルス様という方は、存在いたしませんの。……私が宇宙を支配する過程で、彼に出会う『偶然』が、発生しませんでしたわ」
現在のエリザベートが、隣のカエルスを、思わず、見つめた。
カエルスは、何も言わずに、ただ、彼女の手を、握り直した。
半分しか持たない魂ではなく、満ちた魂の温度で。
「……未来様。私は、貴女様を、消しませんわ」
「……え?」
「貴女様の魂を、ネットワークに溶かすことは、貴女様の『自己決定』として、確かに尊重に値いたします。……ですが、その前に、一つだけ、提案させていただきますわ」
現在のエリザベートは、立ち上がり、未来の自分の前に、跪いた。
女帝が、自分自身の前で、跪いた、初めての光景だった。
「未来様。……私の世界で、一年、お過ごしくださいませ」
「……一年?」
「ええ。一年だけ。私の隣で、カエルス様の隣で、四十一人の妹たちと一緒に、月例会のクロワッサンを齧り、ジュリアン氏の登録業務を冷やかし、E-99999と相互不干渉条約をご一緒に眺める。……ただ、それだけの一年を」
「……」
「その一年が終わった後、それでもなお、貴女様が『消えたい』と仰るのであれば、私は、その手続きに、最大限の敬意を持って、立ち会わせていただきますわ。……ですが、消えるのは、その後でも、遅くございませんわ」
未来のエリザベートは、跪いた自分から、目を離せずにいた。
そして、初めて、その瞳から、ぽつり、と一滴、涙がこぼれた。
「……三千二百年で、初めて、誰かに、私の隣にいることを、勧めていただきましたわ」
「ええ。それが、私の宇宙の、新しい礼節ですわ」
現在のエリザベートが、未来の自分の手を、優しく握った。
「一年、お過ごしくださいませ。……その後の決算は、その後で」
未来のエリザベートは、しばらく、震えていた。
そして、ゆっくりと、頷いた。
女帝、未来の自分を「消す」のではなく「招く」道を選びましたわ。
これは、覇道ではなく、慈愛ですの。三千二百年の孤独に、まずは一年の同席で応える——この決算の仕方、本当に美しいですわ。
さて、その一年が過ぎたとき、未来様がどんな決断をなさるか。次は、時間軸をまるごと一年、飛ばさせていただきますわよ。
【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】、未来様への一年のお招きに、ぜひ。




