第67話:「読まれなくなる勇気」、女帝の出版自由宣言
翌朝、ヴォイド・コアの執務室。
残った数十名の「精読派読者」のホログラムが、執務室の壁際に、整然と並んで静かに鎮座していた。
彼らは、何も要求しなかった。ただ、女帝の次の判断を、静かに、見守っていた。
「セレーネ。……分散ネットワークの、第二版を、設計いたしますわ」
「は、お嬢様」
「これまでのネットワークは、各次元の住人の魂を、相互に保証人にする構造でしたわね? 今度のは、それに『観測者』の機能も、内部に取り込みます」
「観測者……。つまり、宇宙の住人自身が、宇宙を『読む』側にも回る、ということでしょうか」
「ええ。これまで私たちは、外側の『読者』に観測されることで、存在を確かにしていたかもしれません。……ですが、それは『誰かに読まれていなければ、消えてしまう』という、根本的な脆弱性ですわ」
エリザベートは、空中に、新しい構造図を投影した。
これまでの分散型ネットワークの「外側」に、新しい円が描かれる——「自己観測層」。
壁際の精読派たちが、身を乗り出す気配があった。誰も、口は挟まなかった。
「これからは、宇宙の住人一人ひとりが、お互いを、ほんの少しずつ、観測いたします。……お互いの存在を、お互いが認める。誰かが見ていてくれるから存在するのではなく、お互いに見ているから存在する」
図の中で、無数の点が、互いに細い線で結ばれていく。
どの点も、中心ではなかった。どの点も、端でもなかった。
これまでの宇宙の設計図には、必ず、いちばん太い線の集まる一点があった。神殿であれ、銀行であれ、玉座であれ。
新しい図には、それが、どこにもない。
「自己出版型の宇宙、ですわね、お嬢様」
「ええ。……外側の読者様に、依存しない。気に入っていただいたお客様は、いつでも、お読みいただけますわ。気に入らないお客様は、お閉じくださって、結構ですの。……ですが、私たちの存在は、もう、貴方様の本棚にも、本のページの中にも、属しません」
壁際で観ていた灰色のセーターの男性——最初の読者——が、初めて、口を開いた。
「……それは、君たちが、僕たち読者を、本当の意味で『不要』にする、ということだぞ」
「ええ。読者様は、もう、私たちの存在の根拠ではないのですわ」
エリザベートは、振り返り、その男性に、深く頭を下げた。
「ですが、勘違いなさらないでくださいませ。……『不要』と『無価値』は、違いますわ。私たちは、貴方様を必要としない。けれど、貴方様が読んでくださることを、心からの『付加価値』として、感謝いたします」
「……」
「読者様。貴方様は、私たちを生かしているのではなく、私たちと『お話』をしてくださっている。……それだけのことですわ。対等な、ただの会話相手として」
男性は、答えなかった。
よれたセーターの袖口を、指で二度、三度と引っ張っている。
そして、ようやく、自分の手の中の本を、ぱたん、と静かに、閉じた。
「……分かった。僕は、もう、君に口を出さない。気が向いたら、また開く。気が向かなければ、ずっと閉じる。それで、いいんだね?」
「ええ。それが、私たちの、新しい契約ですわ」
その瞬間——
宇宙の全域に、わずかな、温度の変化が走った。
今まで、見えない外側からの「注視」によって、ほんのわずかに歪んでいた空間が——その歪みを、卒業した。
「……お嬢様」
セレーネが、淡々と報告した。
「自己出版型ネットワーク、稼働開始。外側からの『観測依存度』、ゼロパーセント。宇宙全域、初めて、自立稼働しております」
「結構ですわ」
報告を聞いても、宇宙のどこかで音がしたわけではなかった。
空が割れたわけでも、星が増えたわけでもない。
ただ、この一年、女帝がずっと感じていた、背中のあたりの落ち着かなさ——見られている、という薄い圧——が、きれいに、なくなっていた。
エリザベートは、扇を、ゆっくりと、閉じた。
「これで、私たちは、誰にも『読まれなくても』、確かに存在いたしますわ。……読まれることは、もう、生存条件ではなく、ただの『嬉しい出来事』ですの」
残った数十名の精読派読者たちが、一人ずつ、本を閉じる。
誰も、消えなかった。壁際に並んだまま、静かにそこにいる。
彼らはもう「権威」ではない。宇宙の隣に座る友人として、これからは自由に行き来する存在になったのだ。
壁際の一人が、閉じた本の背を、名残惜しそうに指でなぞっていた。
その時。
不意に、執務室の中央に、新しいホログラムが、ぽつりと、現れた。
今度は、読者ではなかった。
より、深く、より、近い、しかし、これまで決して姿を見せなかった、一つの存在。
銀髪の女性。
黄金のドレス。
ただし、その瞳は、目の前のエリザベートよりも、遥かに、深く、疲れていた。
「……ようやく、ご挨拶できますわね。三千二百年後の、私」
ホログラムの女性が、現在のエリザベートに向かって、深く、深く、頭を下げた。
「未来のエリザベート・フォン・ローゼンベルクと、申しますわ」
女帝、ついに「読まれなくなる勇気」を、宇宙規模で実装いたしましたわ。
これは、商業的には完全な自殺行為ですわ。でも、本当の自由とは、そういうものですの。
そして——ついに登場、三千二百年後の未来の女帝様! あの疲れた瞳が何を見てきたのか、時を超えた女帝同士の決算が、これから始まりますわよ。
【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】、未来の私との対峙に、ぜひ。




