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婚約破棄、承りました。ですが私の管理していた「国家予算」「精霊の加護」「魔導防衛網」は全て私有財産ですので、回収させていただきますわね?  作者: 桐谷ルナ


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第64話:召喚士現る、宇宙の編集者ではなく「読者」

 月例会の翌朝。

 ヴォイド・コアの執務室の中央に、それは、突然、立っていた。


 四十代後半とおぼしき、疲れた顔の男性。

 よれた灰色のセーターに、無造作な髭。手には、半分まで読み進めた、表紙のない本を握っている。

 帝国の最高警戒網のどこも、彼の侵入を検知しなかった。

 なぜなら——彼は、最初から「物理的に侵入した」のではなかったから。


「やあ」


 男性は、極めて気軽に、片手を上げた。

 まるで、数年来の友人の家に立ち寄ったかのような調子で。


「失礼。ノックも忘れて。……君が、エリザベート・フォン・ローゼンベルクで、間違いないかな?」


「……お初にお目にかかりますわ」


 エリザベートは、扇を閉じ、慎重に立ち上がった。


「失礼ですが、どちら様でいらして?」


「ああ、自己紹介がまだだったね。……僕は『読者』だよ」


「……読者?」


「うん。君の物語を、ずっと読んでいる、ただの読者」


 男性は、執務室のソファーに、許可も得ずに、どっかりと腰を下ろした。

 絹張りの座面が、彼の体重を、正確に受け止める。この部屋のものは、彼に対してだけは、きちんと物理法則を守るらしかった。

 手にした本を、テーブルの上に、ぽんと置く。


「最近、退屈になってきたんだ。君の物語が」


 彼は、本の表紙を、軽く叩いた。

 その瞬間、エリザベートは、本の表紙が見えないはずなのに、その本の内容を、本能的に理解した。


 それは——彼女自身の物語、その全てが綴られた、一冊だった。

 あの卒業パーティーの夜から、ファウストの引退、そして昨夜の月例会まで。

 全てが、彼の手の中の、その本に、書かれていた。

 背表紙の下三分の一だけが、指の脂で黒ずんでいる。何度も、そこまでしか開かれていない本だった。


「……あら」


 エリザベートの背筋を、これまで一度も感じたことのない、温度の冷たさが走った。

 ファウストと対峙した時の冷たさは、まだ「知性の格付け」に関するものだった。

 しかし、目の前のこの男の冷たさは——「自分の存在そのものを、外側から眺められている」という、根本的な侮辱の冷たさだった。


「君は、いい子だよ、エリザベート」


 彼は、紅茶を、勝手にカップに注ぎながら、続けた。


「最初の七話は、最高だった。婚約破棄、即座の経済制裁、王国崩壊、戴冠式。テンポも切れ味も完璧。僕は、何度も読み返したよ」


「……」


「でも、最近は、なんていうか——『話し合い』が増えたよね。ファウストとの茶会。ジュリアンとの再就職交渉。E-99999との相互不干渉条約。今朝の月例会、四十一人で経営報告。……正直、僕、ページを飛ばしたんだ」


 エリザベートの扇が、わずかに、震えた。


「……飛ばし、ました?」


「うん。読者特権だよ。気に入った場面だけ読んで、退屈なところは斜め読み」


 その言い方に、悪意はなかった。

 悪意がないぶん、質が悪い、とエリザベートは思った。


 男性は、紅茶を、満足げに啜った。


「だからね、エリザベート。提案があるんだ。もう一度、『最初の七話』の路線に戻ってほしい。新しい敵を派手にざまぁして、また気持ちよく読ませてくれ。……それができないなら、僕は、この本を閉じる。閉じたら、君の宇宙は、僕の本棚で、永遠に、誰にも読まれない『未完の駄作』として、埃を被ることになるよ」


「……」


 エリザベートは、扇の要を、指の腹で一度だけ強く押さえた。

 カエルスが、背後で、漆黒の剣の柄に手を添えた。

 しかし、男性は、剣を一瞥もしなかった。


「君の旦那さん、剣を抜いても無駄だよ。僕、君の宇宙の『内側』には、いないから。本を読んでいる僕に、本の中の剣は、届かない」


 その言葉は、事実だった。

 カエルスの権能——「概念執行」さえも、本のページの外側には、届かない。


「……あら、まあ」


 エリザベートは、扇を、ゆっくりと、テーブルに置いた。

 そして、男性の向かいのソファーに、優雅に腰を下ろした。


「読者様。お聞きしたいことが、たくさんございますわ。……まず、お名前を、伺っても?」


「名前? 名前なんて、いらないよ。僕は『読者』だから」


「では、お代わりの紅茶を、お注ぎいたしますわね」


 エリザベートは、ティーポットを手に取り、彼のカップに、新しい紅茶を注いだ。

 その所作は、完璧な、迎賓の作法だった。


「読者様。本日は、私の物語を読んでくださって、誠にありがとうございますわ。……ですが、お代金は、いただいておりませんわよね?」


 男性が、初めて、紅茶を啜る手を、止めた。


「……お代金?」


「ええ。図書館の貸出記録さえも、お持ちでない。……つまり、読者様。貴方は、私の物語を、無料で、しかも一部を読み飛ばして、それでもなお、結末への口出しを、なさろうとしている」


 エリザベートの瞳が、紫水晶の温度に、戻った。


「失礼ながら、読者様。……それ、明白な『不当な顧客クレーム』ですわよ?」


 男性の顔から、ほんのわずか、笑みが、消えた。

 彼が知らなかったルール——「読者にも、責任がある」——を、エリザベートは、最初の三分で、突きつけてきたのだ。

 女帝、ついに「読者」というメタ的な相手に、最初の一撃を入れましたわ。

 でも、相手は手強い。なんと、本の外側にいるため、カエルス様の剣が物理的に届かないのですわ。

 次は、女帝による、人類史上初の「閲覧履歴の監査」。読み飛ばしたページは、一秒単位で記録されておりますのよ。

 【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】、女帝の「不当クレーム対応」に、ぜひ。

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