第61話:第二の壁——ジュリアンの自己更新
「……お嬢様。一通、奇妙な郵便物が」
翌朝、ヴォイド・コアの執務室。
セレーネが、銀の盆の上に、ボロボロの茶封筒を一通、載せてエリザベートに差し出した。
差出人欄には、震える筆跡で、こう書かれていた。
『第1世界・リサイクル・スラム在住、ジュリアン(元・王太子、現・通行人)』
「あら、まあ」
エリザベートは、扇で、わずかに目を細めた。
第1世界の元・婚約破棄者。かつて「自動靴磨き機の電池」として再利用された、彼女の覇道の最初の獲物。
彼が、ネットワークの「一粒」を受け取って、わずかな自我を取り戻していることは、知っていた。
だが——「手紙」を書くまでに回復していることは、想定外だった。
「……読み上げてくださる、セレーネ」
「は」
セレーネは、無機質な声で、しかし丁寧に、その手紙を読み上げた。
『——エリザベート皇后陛下。
お久しぶりです。私はジュリアンと申しますが、もう「元・王太子」を名乗る権利は捨てましたので、ただのジュリアンで結構です。
ネットワークから一粒の魂を頂いた日から、私は、自分という存在を、初めて「外側」から見ることができるようになりました。
その上で、お願いがございます。
私を、貴女の手で、もう一度、監査してくださいませ。
ただし、減刑のためではありません。「適切な処遇」を、決定していただきたいのです。
私は、今のままの靴磨き機ではいたくありません。
ですが、それ以上を求める資格も、ありません。
貴女が、ファウスト氏に「白紙小切手」を渡されたカエルス様の妻として、私という「不良在庫」を、どう処分なさるか。
お決めくださいませ。
ジュリアン』
読み終えたセレーネが盆を下ろすまで、誰も口を開かなかった。
封筒の折り目には、何度も書き直したらしい、消しかけの文字が透けている。
カエルスが、静かに紅茶のカップを置いた。
「……驚いたな。あの男が、ここまで」
「ええ、陛下。……ですが、これ、罠ではございませんわ。本心の文章ですわ」
エリザベートは、立ち上がった。
「行きますわよ、セレーネ。陛下、ご一緒に?」
「いや、これは君の案件だ。……電池に戻すか、別の使い道を与えるか、君が決めろ」
第1世界、リサイクル・スラム。
鉄屑と油の匂いが、路地の低いところに溜まっている。
道端の靴磨き機の前に、エリザベートが降り立った。
ジュリアンは、最初、彼女の姿を見て、震えた。
だが、すぐに、姿勢を正し、深く頭を下げた。
「お越しくださり、ありがとうございます、皇后陛下」
「ジュリアン。立ちなさい」
エリザベートは、彼の前にしゃがみ、目線を合わせた。
その瞳には、慈悲もなければ、軽蔑もなかった。
ただ、純粋な「監査官」の温度だった。
「……貴方の手紙、興味深く拝読いたしましたわ。一つ、伺います。なぜ、靴磨き機のままではいけませんの?」
「……電池として通電し続けることは、楽でございます。考えなくて済みますから」
ジュリアンは、震える声で、しかし、はっきりと答えた。
「ですが、考えなくて済むということは、何も改善できないということ。私は、もう、貴女に断罪された時の私のままでは、いたくないのです」
「……ふむ」
「ですが、貴女の隣に立つ資格もない。であれば、その『中間』に、私を、置いていただきたい」
エリザベートは、その痩せた肩から、しばらく目を離さなかった。
そして、扇を、ゆっくりと閉じた。
「ジュリアン。……貴方を、雇いますわ」
「……っ」
「役職名——『新規入荷エリザベート登録官』。仕事は、ネットワークから自然発生する新しい『私』を、一人ずつ、丁寧に台帳に記録すること。お給料は、靴磨き機の三倍。……ただし、絶対に、彼女たちに『あなたが断罪された王子の同類です』とは、名乗らないこと。これが採用条件ですわ」
「……エリザベート、皇后陛下」
「貴方の存在を、隠せという意味ではありません。……ただ、彼女たちが、貴方を『前科』ではなく、『同僚』として認識できる時間を、与えてほしいのですわ」
ジュリアンは、その場から動けなかった。
油で黒くなった指が、膝の上で、何度も握り直される。
そして、深く、深く、頭を下げた。
「……謹んで、お引き受けいたします」
「結構ですわ。……それから」
エリザベートは、立ち上がり、靴磨き機の真鍮の蓋を、優雅に撫でた。
「貴方の隣で、街灯として燃えていらした、リリアン様。彼女にも、新しい仕事を、考えて差し上げてくださいな。……今度は、貴方が、彼女の『お母様』役ですわよ?」
「……承知いたしました」
女帝は、踵を返した。
その背中に、ジュリアンが、最後に一言、震える声で告げた。
「……皇后陛下。……あの夜、貴女に断罪されたこと。……今は、感謝しております。あの夜がなければ、私は、私のままで、ずっと死んでいた」
エリザベートは、振り返らなかった。
ただ、扇の先で、空に小さく丸を描いた。
「了解しましたわ、ジュリアン。……それは、貴方が、これから働いて、証明してくださいませ」
ジュリアン様、まさかの「再雇用」ですわ。靴磨き機から登録官への、大昇進でございますの。
でも、女帝は彼を「赦した」わけではありません。「再利用」したのですわ。この線引きが、本作の倫理観の根幹でございますの。
次に入荷する妹は、登録官の名簿に載る前に、女帝へ一言だけ寄越しますの。「私の世界に、立ち入らないでくださいませ」と。
【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】、ジュリアン様の新生活への、温かい一票を。




