第60話:新型エリザベート「敗北を覚えた女帝」
「次の方を、お通しなさい」
エリザベートが、新しい面接ノートを開きながら告げる。
扉が静かに開き、一人の少女が入ってきた。
白いブラウスに、地味な紺のスカート。
化粧気のない、それでもどこか凛とした立ち姿。
扇も、宝石も、何も身につけていなかった。
「……あら、ようこそ。……お名前を、伺っても?」
「私には、シリアル番号がございませんの」
少女は、淡々と答えた。
「ネットワークが私を生成した時、私は『型番』を拒否いたしました。……ただの『エリザベート』と、お呼びくださいませ」
部屋の空気が、わずかに、変わった。
エリザベートは、扇を膝に置き、彼女を、初めて、対等な相手として見つめ直した。
「……お聞きいたしますわ。貴女の世界では、何が起きましたの?」
「卒業パーティーで、ジュリアンに婚約を破棄されました。……それは、ここの皆様と、ほぼ同じですわ」
「ええ。それから?」
「私は、勝ちませんでしたの」
ただの・エリザベートが、ゆっくりと、椅子に座った。
「あの夜、私は、自分の私財を回収する力を、確かに持っていましたわ。……ですが、回収する代わりに、私はリリアン……ええ、私の世界の聖女ですわ、彼女と、長く話しました」
「……話し、ましたの」
「ええ。彼女が、なぜ私を陥れる必要があったのか。彼女自身が、何に怯えていたのか。……三日間、ほとんど寝ずに、話しました。……結論は、彼女もまた、私と同じ『発注されて生まれた』少女だった、ということ」
エリザベートは、息を呑んだ。
ファウストの言葉が、脳裏に蘇る。
「リリアン」もまた、彼女のテンプレートの「敵役」として、量産された存在だったのだ。
「私は、彼女と和解いたしましたわ。ジュリアンとも、徹底的に話し合い、彼の中の『無能』を、丁寧に矯正しました。今、彼は地方都市の地味な役人として、誠実に働いておりますの。リリアンは、孤児院を経営しております。私自身は、ジュリアンと結婚もせず、女帝にもならず、ただの一介の元・公爵令嬢として、街の図書館の司書をしておりますわ」
「……」
「私の世界には、女帝が、おりません。……ただ、誰も悲劇に巻き込まれなかった、一つの卒業パーティーの記憶だけがございます」
エリザベートは、長い間、何も言えなかった。
自分の覇道——神を裁き、宇宙を買収し、運命を書き換えた、その全ての労力——を、たった一人の、扇も持たない少女が、「話し合い」という、最も古典的な手段で、回避していた。
「……お母様」
ただの・エリザベートが、初めて、エリザベートを「お母様」と呼んだ。
しかし、その声には、慈愛も、依存もなかった。
ただ、対等な、しかし鋭い、批評の温度だけがあった。
「お母様の覇道は、お見事ですわ。……ですが、まだ『勝つ』ことに依存していらっしゃいますわね?」
「……ええ」
エリザベートは、扇を握る指に、力を込めた。
「ファウスト様を解体し、銀行を分散化しても——お母様ご自身は、まだ『裁く女帝』のままですわ。……新しい妹たちを『教育』なさるのも、彼女たちを『勝てるよう』に育てるためでしょう? 私は、それを『新しい中央集権』と呼びますわ」
カエルスが、紅茶のカップを置く音が、部屋に響いた。
彼は、口を挟まなかった。
ただ、妻が、生まれて初めて、知性で対等以上の相手と対峙する瞬間を、静かに、見守っていた。
「……ただの・エリザベート」
女帝が、扇を、ゆっくりと置いた。
「貴女のお考えは、ある意味で、私より遥かに、洗練されていますわ」
「お母様」
「ですが、私には、貴女のように『話し合う』時間が、ございませんでしたの。あの夜、私の隣にいたのは、扇と、契約書と、そしてセレーネ、それだけ。……『話し合う』には、相手の善意を信じる必要がございます。……私には、それを信じる材料が、何一つ、なかったのですわ」
「……承知しております」
ただの・エリザベートは、深く頭を下げた。
「ですから、私はお母様を、責めるために参ったのではありません。……ただ、お母様が、ご自身の『勝ち癖』を、いつか、卒業なさる日が来ることを、願って参りました」
「……」
エリザベートは、自分の手のひらを、開いたまま、しばらく閉じられずにいた。
扇のない、素手の手のひら。
その手が、神を裁き、宇宙を買収し、夫の魂を取り戻した手だった。
その手は——「話し合う」ためには、まだ、使われたことがなかった。
「貴女の世界に、お戻りなさい、ただの・エリザベート」
女帝が、静かに告げた。
「貴女の流派は、ここでは育てられませんわ。……ですが、私が、貴女から学ぶべきことが、確かにある。……ありがとう」
「いいえ、お母様。……またいつか、図書館の司書として、お母様のお茶会に呼んでくださいませ」
ただの・エリザベートは、深く一礼し、退室した。
彼女が去った後、エリザベートは、冷めていく紅茶のカップから、しばらく目を離さなかった。
九人分の紅茶のうち、飲み干されたのは、まだ一つもなかった。
「……陛下」
「ああ」
「私、今夜、初めて『負ける夢』を、見るかもしれませんわ」
「……それは、君の魂が、また少し成長した、ということだろう」
カエルスは、妻の手を、静かに握った。
女帝の覇道に、初めて、「勝たない」という選択肢が、宿った夜だった。
ただの・エリザベート、なんと鋭く、なんと優しい妹でしょう。
女帝の「勝ち癖」を、扇も持たぬ手で、丁寧に指摘しに来た——第二章で、いちばん強い妹でしたわね。
さて、面接の列に、もう一人。今度は妹ではなく、かつて女帝が街灯に変えてしまった男が、自分自身の監査を申請してまいりますわ。
【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆】、女帝の「初めての敗北の予感」に、ぜひ。




