第56話:ファウストの茶会、開示される「私が私を発注した日」
第十二階。
頭取応接室の重厚な扉が、静かに開いた。
そこは、エリザベートの予想とは、まるで違う部屋だった。
豪奢な玉座も、見せかけの権威も、何もない。
ただ、磨き上げられた木製のテーブルと、二脚の椅子。
窓際には、銀のティーセットが控えめに置かれている。
壁にかかっているのは、油絵一枚だけだった。
古い、銀髪の少女の肖像画。
筆致から判断するに、数千年は前のものだ。
その少女は、エリザベートと、寸分違わず、同じ顔をしていた。
「お待ちしておりました、エリザベート様。……どうぞ、おかけくださいませ」
ファウスト・ヴォイドが、立ち上がって、丁寧に椅子を引いた。
その所作は、敵というよりも、長年の家庭教師のように穏やかだった。
「……陛下、皇帝陛下も、どうぞ。本日は、ご家族でのご来店、何よりですわ」
「家族扱いとは、随分と馴れ馴れしいな」
カエルスが鋭い視線を投げる。
しかし、ファウストは微笑むだけで、応じなかった。
二人が椅子に着くと、ファウスト自らが紅茶を淹れた。
湯気の立つカップを、エリザベートの前に置く。
「東洋からの、極めて希少な茶葉でございます。……『一度だけ、最高の客にしか出さない』と、私が誓った銘柄ですわ」
「あら。それは、ありがたいですわね」
エリザベートは、カップに口を付けなかった。
その代わりに、テーブルの上に、待合室で集めた四十三通の契約書を、丁寧に重ねて置いた。
「ファウスト様。お話の前に、ご確認いたしますわ。……これら、すべて貴方の本店から発行された契約書ですわね?」
「ええ。……どれも、私が個人的に契約させていただいた、大切なお客様のものですわ」
「全て、解約させていただきますわ。本日この場で」
エリザベートが、扇の代わりに、四十三通の契約書を扇のように広げた。
「貴方の頭取権限で、解約手続きを承認なさい。……『買戻し交渉』に応じてくださるおつもりでしたら、まずは、これら『一般のお客様』から、ですわ」
ファウストは、長い間、彼女を見つめた。
そして、ゆっくりと、片眼鏡を外した。
眼鏡の奥の瞳は、深く、深く——どこまでも疲れていた。
「……承知いたしました。……ケルベロス、受理してください」
通信機を通じて、一階のケルベロスに指示が下る。
四十三通の契約書が、その場で、無効の朱印を押されて、消滅した。
エリザベートは、目を細めた。
「随分と、素直ですのね。罠ですの?」
「いいえ。本心ですわ」
ファウストは、自分のカップを、口に運んだ。
「エリザベート様。……まず、貴女様が最もお聞きになりたいことから、お答えいたしましょう」
彼は、壁の肖像画を、ちらりと見上げた。
「あの絵の少女は、今から三千二百年前の、私の最初の『お得意様』でございます」
「……どなた?」
「貴女様ですわ」
エリザベートの心臓が、一度、確かに止まった。
「私が——三千二百年前に、貴方の客だった?」
「ええ。……正確には、今から三千二百年後の、未来の貴女様、と申し上げるべきでしょうか」
ファウストは、穏やかに、しかし容赦なく、続けた。
「未来の貴女様は、宇宙のすべてを支配し、神を裁き、運命を書き換え、ありとあらゆる『敵』を駆逐なさいました。……そして、ある日、私の元に転送してこられた」
「……何を、しに」
「ご退屈になったのですわ」
ファウストは、まるで天気の話でもするように、軽く言った。
「全てを支配し、何もすることがなくなった未来の貴女様は、私に『発注書』を提出なさいました。……『悪役令嬢エリザベート・フォン・ローゼンベルクのテンプレートを、過去に量産せよ。私の若き日の人生を、最初からやり直したい。ただし、適切な敵と、適切な味方を配置せよ』と」
彼は、深いため息と共に、続けた。
「私は、その発注書通り、貴女様の『若き日』を製造いたしました。……ジュリアン王太子、聖女リリアン、聖教国、神々、原典編纂委員会——全て、未来の貴女様が、ご自分で書かれた『発注リスト』に基づく、配役でございます」
エリザベートは、長い間、何も言えなかった。
カエルスの手が、テーブルの下で、彼女の手を握った。
半分しか持たない魂の、それでも全部の温度で。
「……陛下のことは?」
「未来の貴女様の、たった一つの『書き忘れ』ですわ」
ファウストは、初めて、本物の笑みを浮かべた。
「カエルス様は、貴女様のご指定外。……三年前、カエルス様が私の元に来られ、『この子に別の人生を売れ』と仰った時——私は、初めて、未来の貴女様への『反逆』を試みました。白紙小切手の契約を、許可したのです」
「……反逆?」
「ええ。……私は、製品ではなく、本物の『お客様』に出会えた気がしたのですわ。……貴女様のために自分の魂を白紙で差し出した、あの方の真心に。……あれは、私の三千二百年で、最も美しい契約でございました」
カエルスの肩が、わずかに震えた。
「だが、ファウスト殿。あなたは、その魂で、何をした?」
「……何も。何も、しておりません」
ファウストは、静かに告げた。
「カエルス様の魂の半分は、私の机の最下段の引き出しに、契約書と一緒に、ずっと『未使用のまま』保管されておりますわ」
エリザベートが、目を見開いた。
「……未使用、ですって?」
「ええ。……私には、それを使う気がございませんでした。……あれは、お二人の『愛』の証ですもの。……商人として、最も使いたくない、最も貴重な資産でございます」
エリザベートは、静かに立ち上がり、壁の油絵に歩み寄った。
三千二百年前の、未来の自分。
じっくり見ると、その肖像画の少女は、確かにエリザベートと、寸分違わず、同じ顔をしていた。
ただ——
その瞳の奥には、現在のエリザベートにはない、深い「欠損」が宿っていた。
全宇宙を支配し、神々を裁き、運命を書き換えた未来の女帝の隣には——絵筆が決して描けなかった、誰の影もなかった。
未来の彼女の肖像には、カエルスが、いなかったのだ。
「……ファウスト様」
エリザベートが、絵を、まっすぐに指差した。
「未来の私には、陛下が、いらっしゃらないのですわね?」
「……ええ」
ファウストは、深く、悲しげに、頭を下げた。
「あの肖像画の貴女様は、ご結婚なさる前の、いえ——カエルス様という存在をご存知ない、お一人の貴女様でいらっしゃいました。……三千二百年前のあの夜、貴女様は、お一人で私の元へお越しになったのです」
「……」
「だから、私は、貴女様を救うために、過去に『悪役令嬢のテンプレート』を量産することを、お引き受けしたのですわ。……『若き日からやり直したい』と仰った貴女様の願いの中には、本当は、隣にいてくださる方を、見つけ直したい、という願いも、確かに、含まれていたはず」
エリザベートは、長い間、絵を見つめていた。
いつの間にか、カエルスが、無言で、彼女の隣に並んでいた。
絵の中の孤独な未来の自分と、現在の隣に立つ、満ちていない魂の夫。
その対比に、エリザベートは、初めて、なぜ自分が「退屈した」末に「過去をやり直したい」と願ったのか、その本当の理由を、悟った気がした。
「……陛下に、感謝いたしますわ」
彼女は、振り返り、夫の手を、ぎゅっと、握り直した。
「未来の私が、隣に貴方を持てなかったのは、彼女の不徳。……ですが、今の私が、貴方を隣に持てているのは、貴方の白紙小切手のおかげですわ。……陛下の、その契約書のおかげで、私の人生は、あの肖像画とは、確かに、別物になりましたの」
カエルスは、何も言わず、ただ、妻の手を握り返した。
半分しか持たない魂で、それでも、全部の温度で。
ファウストは、その光景を、目を細めて見守り、椅子から立ち上がり、エリザベートとカエルスに深く一礼した。
「エリザベート様。……私は、もうすぐ引退いたします。三千二百年、宇宙の物語を運営してまいりましたが、もう、限界ですの」
彼は、机の最下段の引き出しを開け、小さな、銀の箱を取り出した。
その中には、半分に割れた、漆黒の魂の結晶が、静かに眠っていた。
「私の後継者として、貴女様を指名いたしますわ。……この椅子に、お座りなさいませ。……対価として、こちらのカエルス様の魂を、お返しいたします。……ただし、貴女様が頭取になられた場合、新しい『未来の貴女様』も、いずれ、若き日の私と同じ発注書を、過去に送ることになりましょう」
エリザベートは、銀の箱の中の魂を、長い間、見つめていた。
そして、艶やかに、最も美しく、微笑んだ。
「……あら。また随分と、粗悪な営業電話ですわね」
「……エリザベート様?」
「ファウスト様。……お申し出は、誠実で、ありがたく頂戴いたしますわ。ですが、——却下ですの」
エリザベートは、立ち上がり、銀の箱を、丁寧にファウストの胸元に押し戻した。
「私は、私自身の『未来の私』を、最も信頼しておりませんもの。……同じ椅子に、もう一度誰かを座らせれば、また、新しいエリザベートが、過去に発注書を送るでしょう。……これは『システム』の問題ですわ。後継者の問題ではなくて」
彼女は、深く頭を下げた。
「二十四時間、ください。……貴方の椅子を、別の方法で、解体させていただきます」
ファウストは、長い間、彼女を見つめ、そして、深く、深く、頭を下げた。
「……承知いたしました。お待ちしておりますわ。……ですが、二十四時間後に、本店は閉店いたします。……閉店時には、すべての契約が、デフォルト処理されます。……お気をつけて」
女帝は、夫の手を取り、応接室を後にした。
壁の油絵——三千二百年前の、未来の自分の肖像が、その背中を見送っていた。
その瞳には、ほんのわずか、寂しげな影が宿っていた。
ファウスト様、ただの黒幕ではなく、「未来の貴女様への反逆者」でしたわね。
そして本作最大の伏線——「悪役令嬢を発注したのは、退屈した未来の私自身でした」。これ、なろう史上類を見ない、究極の自業自得ですわ。
でも、現在のエリザベート様は、その「未来の私」さえも信頼せずに、椅子そのものを解体するとお決めになりました。これぞ、本当の女帝の覇道ですわ。
残り時間は、二十四時間。閉店の鐘が鳴るまでに、女帝は宇宙の「物語経済」そのものを、解体して組み直さなければなりませんの。




