第55話:次元中央銀行、本店ロビー。番号札666番、お待ちのお客様
次元中央銀行・本店。
その姿は、これまでエリザベートが破壊してきた、神殿でも、議事堂でも、宇宙の演算中枢でもなかった。
全銀河を見下ろす、ガラス張りの超高層ビル。
エントランスには『Dimensional Central Bank』と、銀の文字で控えめに彫られている。
夜空を背負い、星々と肩を並べる、純粋に「現代的な」金融機関の本店だった。
「……あら。随分と、慎ましやかな外観ですこと」
エリザベートは、皇帝カエルスと並んで、回転扉の前に立った。
背後には、セレーネ、ルシフェル、そして四十一人の「自分」たちが、整然と隊列を組んでいる。
「お嬢様。……まずは、いつものように、正面玄関を吹き飛ばしますか?」
セレーネが、淡々と提案した。
しかし、エリザベートは静かに首を振った。
「いいえ、セレーネ。……今日は、お客として参りましたの。最初の監査対象は、私自身の『口座』ですもの。……正面から、整然と入りましょう」
回転扉が、滑らかに回り、四十四人+一機の一団を、丁寧に受け入れた。
ロビーに足を踏み入れた瞬間。
全員が、息を呑んだ。
大理石の床。落ち着いた照明。柔らかな環境音楽。整然と並ぶ受付カウンター。順番待ちの長椅子。
完璧な、現代的な銀行のロビー。
ただし、待合室の長椅子に座っているのは——人ではなかった。
頭部に光輪を戴いた、かつての主神。
角を折られ、力なくうつむく、元・魔王。
全身に金色の刺繍を施した、亡国の王たち。
翼を畳んで膝を抱える、退役した天使たち。
全員、ファウスト・ヴォイドに「契約」を結ばされ、すべてを失った、宇宙規模の「債務者」たちだった。
「いらっしゃいませ。次元中央銀行・本店へ、ようこそ」
受付カウンターから、明朗な、しかし聞き覚えのある三重音声が響いた。
顔を上げたエリザベートの前に、三つの頭を持つ巨大な犬——いや、整然とした制服を着こなした「ケルちゃん」が、丁寧に頭を下げていた。
「……あら、ケルちゃん。……貴女、地獄リゾートの『受付嬢』ではなくて?」
「は、はい。シフト制でございます、エリザベート皇后陛下。本日は、こちらの本店でも勤務しております。……えーと、ご来店の目的は?」
ケルベロスの三つの頭が、慣れた所作で受付端末を操作する。
その姿はもう、地獄の門番ではなく、訓練されたバンカーそのものだった。
「『買戻し交渉』ですわ。頭取のファウスト・ヴォイドから、ご招待を頂いておりますの」
「かしこまりました。……それでしたら、本来はVIPフロアへご案内するのですが——」
ケルベロスが、何かを察したように、エリザベートの瞳を見つめた。
女帝は、艶やかに微笑んだ。
「……『番号札』を、いただけるかしら?」
「は、はい。承知いたしました」
ケルベロスが、整然とした手付きで、番号券を取り出した。
番号——「666」。
偶然か、必然か、悪魔的に縁起の良い数字だった。
「現在、お客様の前に、十三組のお客様がお待ちです。……お席の方で、おかけになってお待ちくださいませ」
「承知いたしましたわ」
エリザベートは、長椅子の空いている席に、優雅に腰を下ろした。
その隣に、カエルスが自分の足で歩いてきて、座る。
四十一人のエリザベートたちは、隣の長椅子に分散して座り、セレーネとルシフェルは立ったまま壁際に控えた。
「……宇宙最強の女帝が、銀行のロビーで番号札を握って待っている」
ルシフェルが、震える声で呟いた。
「これ、ギルドの誰も予想していなかった戦法ですよ……」
「ええ。それが狙いですわ」
エリザベートは、隣に座る、亡国の王らしき老人に、にこやかに声をかけた。
「ごきげんよう。……あなた様は、どちらの債務でいらして?」
「……あ、ああ。私は第331世界の元・国王だ。……五十年前、ファウスト殿に『国土の永遠の平穏』を保証してもらった代わりに、我が一族の魂を……」
「あら、お気の毒に。……差し支えなければ、契約書の控えを拝見しても?」
老王は震えながら、懐から古い羊皮紙を取り出した。
エリザベートが目を通すと、その内容は——あまりにも、彼女自身がカエルスから聞いた契約と、同じ構造だった。
「……ふふ。同じ書式」
彼女は、長椅子の上で、笑った。
「ファウスト・ヴォイド、テンプレートを使い回しなさっていたのね。……皆様、これから半時間ほど、私の番号が呼ばれるまで、皆様の契約書を、私が無料で『監査』して差し上げますわ」
「ほ、本当ですか!?」
長椅子の債務者たちが、一斉にエリザベートに群がった。
待合室は一瞬で、女帝による「無料法律相談会」へと変貌した。
最初におずおずと契約書を差し出したのは、白い髭を蓄えた老人だった。
額の両側に、折れた角の根元が、痛々しく残っている。
「……第447世界の、元・豊穣神アルダンと申します。……二百年前、ファウスト殿に『信徒の数を百倍に増やす』とお約束いただいた代わりに、私の『信徒一人当たりの寿命を、一年ずつ差し引く権利』を、譲渡してしまいまして……」
「あら。それは、即時撤回が可能ですわ」
エリザベートは、老神の契約書を一目見て、指先でぴしりと一行を指した。
「ここをご覧なさいな。『信徒の同意なしの寿命徴収は、地方裁判所の事前許可を要する』。……貴方、許可を取らずに徴収していらしたわね? ……それ、不法搾取の違反契約ですわ。即時無効。徴収した寿命は、お返しなさいませ」
「ほ、本当ですか……!? ありがたい、ありがたい……二百年、ずっと、信徒に申し訳なく思っていたのです……」
老神が、皺だらけの手で顔を覆って涙を流す傍らで、次に進み出たのは、銀色の長髪を持つ若い女性だった。
彼女の右腕は黒い鎖で重く縛られ、その鎖の先は、ファウストの本店の地下深くへと、ずるずると続いていた。
「……第88世界の元・魔王、リリス・モルガナと申します。……勇者に敗れたあと、ファウスト殿が『再起の機会』を提供してくださると約束し、代わりに、私の右腕を担保に……」
「あら、リリス様」
エリザベートは、契約書の数式を、指先でなぞった。
「……担保の評価額が、契約書の十倍に水増しされておりますわよ。これ、明白な詐欺案件。ご自身の右腕、本日中にお返しさせていただきますわ」
エリザベートが指でぱちん、と弾くと、リリスの腕の鎖が、音もなく砕け散った。
元魔王が、五百年ぶりに自由になった指先を、震えるように見つめ、無言で深く深く頭を下げた。
最後に進み出たのは、若い、ごく普通の男だった。
貴族でも、神でも、魔王でもない。
彼の足元には、痩せた仔猫が一匹、じっと寄り添っていた。
「……俺は、ただの旅人です。第1024世界の出身。……三年前、この子の病を治す代わりに、俺の『他人を愛する能力』を担保にすると言われて、契約を……」
「あら」
エリザベートの瞳に、初めて、純粋な怒りが宿った。
「ファウスト・ヴォイド。……『他人を愛する能力』を担保に取るなんて、貴方、商人としての最低限の品位もお持ちでないのね」
彼女は契約書を破り捨て、男の胸元に、そっと手を当てた。
黄金の光が、男の中で凍結されていた愛情を、ゆっくりと、解凍していく。
男は、三年ぶりに、足元の仔猫を「可愛い」と思える感覚を、取り戻した。
「……あ、り、がとう、ござい、ます……」
男が膝をついて泣き出すと、それを見ていた周囲の債務者たちも、一斉に涙を浮かべた。
女帝は、その他の契約書も、次々と、的確に処理していった。
「ここの第十二条、契約者に圧倒的に不利ですわ。後ほど無効を主張なさい」
「貴方様の融資、複利の計算式が一段省略されておりますわね。本来の請求額の四割は『過払金』ですわ」
「あら、貴方様、契約時に未成年でいらしたのね? ならばそもそも契約自体が無効ですわよ」
待合室の空気が、変わっていく。
絶望に沈んでいた債務者たちの目に、わずかな光が宿り始めた。
その光景を、二階のVIPラウンジから、片眼鏡の紳士が静かに見下ろしていた。
ファウスト・ヴォイドは、穏やかに、しかしどこか嬉しそうに、微笑んでいた。
「……『お客様』が、私の『お客様』を、一人ずつ、丁寧に奪っていく。……素晴らしい」
彼は、テーブルに置かれた紅茶を、優雅に口に運んだ。
「やはり、あの方しかおりませんね。……私の、次の頭取は」
ケルベロスの明朗な声が、ロビーに響き渡る。
「お待たせいたしました——番号券666番、エリザベート・フォン・ローゼンベルク様。……第十二階、頭取応接室まで、エレベーターでご案内いたします」
女帝は、長椅子から立ち上がった。
その手には、待合室で集めた、四十三通の契約書の写しが握られていた。
すべて、彼女が「無効」「解除可能」と判定した、ファウストが同じ書式を使い回してきたことの、動かぬ証拠だった。
「では、皆様。……少し、留守を頼みますわね」
エリザベートは、カエルスの腕を取り、エレベーターホールへと歩み出した。
彼女が向かう先には、ファウスト・ヴォイドの、本当の「営業トーク」が、待ち構えていた。
エレベーターの扉が閉まる直前。
四十一人のエリザベートと、各次元の元・債務者たちが、女帝の背に向かって、深く深く、頭を下げた。
誰も命令していない。
ただ、自然に、そうなったのだ。
「……陛下。私、今、ようやく分かりましたわ」
エレベーターの中で、エリザベートが静かに呟いた。
「『支配』とは、跪かせることではなく、頭を下げたくなる空間を作ることだったのですわね」
「ああ。……君は、もう、それができるようになっている」
カエルスが、満ちていない魂の、それでも全部の温度で、頷いた。
エレベーターは、第十二階へと、静かに昇っていった。
女帝、まさかの「ロビーで待ち時間にライバル客を全員引き抜き」戦法ですわ。
ケルちゃんの「受付嬢としての成長」、地獄の門番時代より遥かに有能ですわね。お給料の出来高払い、効果てきめんでございます。
さて、十二階の応接室では、紅茶がもう淹れてございます。頭取が最後に開示するのは、「私が私を発注した日」の伝票ですわ。




