第52話:カエルスの口座、初めて開示される三項目
「……寒いな」
カエルス・アルカディアが目を覚ましたのは、長年連れ添った妻の体温が、隣にないことに気付いた瞬間だった。
漆黒の天蓋を見上げ、ゆっくりと身を起こす。
いつもなら、目覚めと同時に首筋に押し付けられているはずの黄金の銀髪が、今朝はない。
寝室の窓辺。
星屑のカーテン越しに、エリザベートが立っていた。
夜明け前の、青みがかった光の中で、彼女は手のひらに、ぱきりと折れた扇の残骸を載せている。
「……エリザベート」
カエルスが、妻の名を呼ぶ。
彼女はゆっくりと振り返り、いつものように、艶やかに微笑んだ。
ただ、その瞳の奥にだけ、彼が一度も見たことのない「ひび割れ」が走っていた。
「お目覚めですわね、陛下。……ちょうど良かった。……『監査』を始めさせていただきますわ」
「……監査?」
「ええ。被監査対象は——貴方の魂と、その『出所』。……開示なさい、陛下。三項目、伺っておりますの」
カエルスは、ゆっくりと目を閉じた。
数千年。否、それ以上の時間。
彼が「皇帝」として君臨してきた、その奥底に封じてきた記憶を、ようやく開ける時が来たのだ。
妻が、その鋭利な指で、彼自身の鍵を、優雅に、しかし容赦なく、こじ開けようとしている。
「……あれは、お前が王国で生まれた、その三年前の話だ」
カエルスは、寝台に腰掛けたまま、ゆっくりと語り始めた。
「私はその頃、まだ皇帝ですらなかった。覇王と呼ばれてはいたが、ただ強いだけの、未来のない男だった。……ある夜、私の元に、白髪の紳士が訪れた」
「……ファウスト・ヴォイド、ですわね」
「ああ。彼は私に、一通の『商品カタログ』を見せた。……『あなたが、今後人生で出会う、唯一の運命の相手』。そのカタログには、ただ一人の少女の名前が記されていた」
カエルスの喉が、一度、上下した。
「エリザベート・フォン・ローゼンベルク。……君の名だ。だが、その名の隣には、こう書かれていた。『出荷予定:3年後。仕様:悪役令嬢。耐用年数:18年。廃棄予定:婚約破棄イベント時に処刑、または毒殺』」
エリザベートの指が、握り潰した扇の残骸の上で、わずかに震えた。
金糸の切れ端が、一本、指の間から敷布へ落ちた。
「私は、そのカタログを破り捨て、ファウストに告げた。『この子に、別の人生を売れ』と。……彼は微笑み、三項目の『追加オプション』を提示した」
カエルスは、寝台の縁に置いた手で、指を三本立てた。
「一。君の、全並行世界における『生存権』の保証。二。私が築く帝国の、絶対的な『安全性』の保証。三。そして——私の魂の、半分の譲渡」
彼の指は、最後の一本のところで、わずかに揺れた。
「だが、エリザベート。……私はその夜、契約書を、必死で読んだのだ。三項目の代価として、ファウストが何を持ち帰るのか、それだけは——書かれていなかった」
「……書かれて、いなかった?」
「ああ。『私の魂の半分は譲渡する』とは書いてある。だが、『譲渡先で、何に使うか』は、空欄だった。……私は、君を救うために、自分の半分を、白紙小切手で渡してしまったのだ」
エリザベートは、沈黙のまま、夫の前に歩み寄った。
そして、その左胸に、そっと耳を押し当てた。
半分しか持たない魂の鼓動は、確かに、温かく、いつも通り彼女のために脈打っていた。
「……ふふ」
エリザベートは、静かに笑った。
肩を震わせ、声を抑えたまま、しばらく笑いつづけた。
それは怒りでも、悲しみでも、絶望でもない。
経営者として、最も品質管理を厳しくしているはずの自分自身が、最も粗末な契約書にサインしていたという、皮肉な「自己監査結果」に対する、ただの笑いだった。
「陛下。……貴方は、私という商品を、白紙小切手で買い戻したのですわね?」
「……すまない、エリザベート。私には、その金額が、当時のすべてだったのだ」
「いいえ。謝罪は、貴方ではなく——私が、申し上げるべきですわ」
エリザベートは、扇の残骸を窓辺に置き、夫の前に、深く膝を突いた。
女帝が、生まれて以来、誰の前にも、跪いたことのない姿勢だった。
絹の裾が、床の冷たさを吸って、わずかに広がった。
「カエルス。……貴方が三年かけて愛してくれた『私』は、ファウストの工場から出荷された『悪役令嬢仕様・標準モデル』だったかもしれません。……ですが、それを書き換えて、女帝にまで育てたのは、紛れもなく、貴方の半分の魂ですわ」
エリザベートは、夫の左胸に、再びそっと手を当てた。
「ですから、これからの監査は、二人でいたしましょう。……貴方の魂の白紙小切手の、本当の振込先。……それを、私が、徹底的に追跡いたします」
「……エリザベート」
「ええ。……陛下。怖がらないで。……これは、復讐ではなく、決算ですわ」
その時、寝室の扉が、再び静かに開いた。
セレーネが、無言で立っている。
その腕には、今朝で三通目となる、新しい監査通知書が握られていた。
「……お嬢様。三通目が、届きましたわ」
「あら。今度はどなた?」
「……被監査対象は、私です」
セレーネは、いつもの淡々とした声で告げた。
ただ、その瞳の光が、ほんのわずかに、星のように瞬いていた。
「『摘要:被造物。製造元:次元中央銀行・人形部門。出荷年月日:未公開。出荷目的:未公開』。……お嬢様。私は、ゴミ捨て場で偶然生まれた、自然発生型の人形ではなかったようですわ」
誰も、すぐには口を開かなかった。
窓の外で、星屑がひとつ、音もなく流れて消えた。
夫の魂、妻の幸福、そして秘書の存在。
女帝の覇道を支えてきた、最も確かな三つの「資産」たちは、その全てが、たった一つの「工場」から出荷された、製品だったのだ。
「……セレーネ」
エリザベートは、立ち上がり、秘書の頬に手を添えた。
その指先には、もう震えはなかった。
代わりに、これまで彼女が見せてきたどの「冷徹さ」よりも、深く、底光りする黄金の覇気が宿っていた。
「……商品として作られたのなら、商品として、その出荷元を訴えればよろしいですわ。製造責任、瑕疵担保、そして消費者保護法。……ファウスト・ヴォイドに、私の知る『全ての法律』を、たっぷりと教育して差し上げましょう」
窓の外で、夜明けが、宇宙の縁を黄金に染め始めていた。
女帝の、本当の「自己監査」が、いま、始まろうとしていた。
カエルス様、長らく抱えていた「白紙小切手」を、ついに妻に開示できましたわね。
でも、エリザベート様の真の怒りは、夫の自己犠牲そのものよりも、「自分が事前にチェックできなかった」という品質管理者としてのプライドに向かっておりますの。
さて、無口な秘書のほうにも、製造番号がございました。あの子が自分の型番を辿った先に、もう一人の「設計者」が座っておりますわ。




