第6話 泥の手じゃない
【前回までのあらすじ】
身代わりで北の氷の公爵に嫁いだリーゼは、毎晩、厨房で、眠れない公爵クラウスにお茶を淹れるようになった。
リーゼは地下室での十年を話し、クラウスは七年前に大河を凍らせて魔物を止めた夜のことを話した。
「クラウスでいい」。二人の距離が、少しだけ近づいた。
クラウスが、中庭の花壇を見に来るお話です。
その日の昼。
私は、中庭の花壇で、カモミールの様子を見ていた。
植えてから、二週間。
カモミールは、雪の中で、小さな白い花をつけはじめていた。
ミントも、ラベンダーも、どんどん葉を広げている。
城の人たちは、相変わらず、毎朝のぞきに来た。
料理長は、ミントの葉を摘んでいっては、「今夜のスープが楽しみだ」と笑った。
庭師のおじいさんは、花壇のまわりに、黙って風よけの板を立ててくれた。
「――これは、なんだ」
うしろで、低い声がした。
ふり返ると、クラウス様が、回廊に立っていた。
夜ではなく、昼間に、城の西側で、クラウス様を見たのは初めてだった。
クラウス様は、ゆっくりと、中庭に下りてきた。
花壇の前で、足を止める。
雪の中の、白い花。緑の葉。黒い土。
クラウス様は、長いあいだ、それを見下ろしていた。
「あの夜は、暗くて、よく見えなかった」
クラウス様は、しゃがみこんで、花壇の土に、指をふれた。
指が、すっと、土に沈んだ。
やわらかくて、ほんのりとあたたかい。
「……凍っていない」
「あの、私、勝手に」
「この土は、どこから持ってきた」
「持ってきていません。ここにあった、がれきです」
クラウス様が、顔を上げた。
私は、うしろに隠していた手を、少し迷ってから、前に出した。
あかぎれだらけの、ひび割れた手。
「私の手は、がれきを、土に変えるんです。種がすぐに芽を出す、肥えた土に」
声が、少しふるえた。
「でも、これは、ちゃんとした手じゃありません。家では、『泥の手』と呼ばれていました。汚くて、くさくて、人に見せられるものじゃないって。だから、最初の日に、手はないと……」
「誰に、そう言われた」
「……継母に、です。十年」
クラウス様は、立ち上がった。
それから、私の手を見た。
ひび割れて、爪のあいだまで黒い手を。
「リーゼ。北の土地が、どういうところか、知っているか」
「岩と、凍った土ばかりで、何も育たないと」
「そうだ。この城の食べ物は、全部、南から買っている。冬に道がふさがれば、村の子どもたちが飢える。祖母は、南から土を運ばせた。父は、植物の手の者を何人も雇った。だが、北の岩の上では、土はすぐにやせて、凍って、割れた」
クラウス様は、花壇の黒い土を見下ろした。
「この土は、凍らない。それに、これほど肥えた土は、北のどこにもない。北に、いちばん足りないものだ」
それから、まっすぐに、私の目を見た。
「泥の手ではない。君の手は、北の宝だ」
◇
その夜も、いつものように、厨房のかまどの前で、クラウス様と二人だった。
お茶を淹れて、カップを渡して。
それから、私は、ずっと黙っていた。
かまどの火を見つめながら、何度も、自分の手を見た。
――汚い仕事は、汚い場所でするものよ。
――泥の手が、口を出さないで。
十年間、そう言われて、そうだと思ってきた。
この手は、恥ずかしいもの。
隠しておかなきゃいけないもの。
地下室でしか、使っちゃいけないもの。
――じゃあ、あの十年は、何だったんだろう。
「……リーゼ」
クラウス様が、私の名前を呼んだ。
気がつくと、私の手の上に、ぽたりと、何かが落ちていた。
涙だった。
泣き方なんて、忘れたと思っていたのに。
「ごめんなさい……。わからなくて……。うれしいのか、くやしいのか、わからなくて……」
クラウス様は、何も言わなかった。
ただ、ポケットからハンカチを出して、私の手の上に、そっと置いた。
私にふれないように。
でも、すぐ近くに。
それが、この人にできる、精いっぱいなんだと思った。
◇
次の朝。
中庭には、いつものように、城の人たちが、花壇をのぞきに来ていた。
料理長。庭師のおじいさん。洗濯係のおばさんたち。厩番の若い人。アンナ。少しはなれて、ハンスさん。
みんな、うすうす、気づいていたと思う。
あの朝、私の手は、爪のあいだまで黒かったから。
でも、私は、まだ一度も、自分の口で言ったことがなかった。
――泥の手が、口を出さないで。
継母の声が、また、聞こえた。
私は、うしろに隠していた手を、前に出した。
あかぎれだらけの、ひび割れた手を、みんなの前に出した。
「……この花壇の土は、私がつくりました」
声が、ふるえた。
「私の手は、がれきを、土に変える手です。家では、『泥の手』と呼ばれていました。汚い手だから、人に見せるなって。だから、ずっと、隠していました。……ごめんなさい」
中庭が、しんとした。
最初に動いたのは、料理長だった。
料理長は、大きな手を、ぬっと、私の前に出した。
指の節は太くて、やけどのあとだらけで、爪のあいだには、今朝むいた芋の泥がつまっていた。
「泥の手なら、わしもですよ、奥様」
庭師のおじいさんが、黙って、土のしみこんだ手を出した。
洗濯係のおばさんたちが、あかぎれで真っ赤な手を出した。
厩番の若い人が、手綱でかたくなった手を出した。
アンナが、少し迷ってから、ほうきのまめのできた手を出した。
「城で働く者の手は、みんな、こんなもんです」
料理長が、にかっと笑った。
「それに、奥様の手のおかげで、わしは、真冬に、とれたてのミントでスープがつくれる。こんなありがたい泥は、ほかにありませんや」
ハンスさんが、一歩、前に出た。
「奥様。この城で、その手を、汚いと言う者は、ひとりもおりません」
私は、みんなの手を、ひとつずつ見た。
それから、自分の手を見た。
並べてみると、私の手は、ちっとも、特別に汚くなんかなかった。
◇
三日後。
クラウス様は、私を、馬そりに乗せて、城の外へ連れ出した。
手綱をとったのは、厩番のトマさんだった。
まだ若いのに、少しだけ、足を引きずって歩く人だった。
城下の村を抜けて、大河のほうへ。
雪の野原の向こうに、それは見えた。
がれきの山だった。
くずれた家の石壁。折れた柱。割れたかわら。
雪をかぶって、あちこちに、小山のように積み重なっている。
「渡し場の村だ」
クラウス様が、低い声で言った。
「七年前、魔物にこわされた。それから、誰も片づけていない。片づけても、ここには何も育たないからだ」
クラウス様は、がれきの山を見つめた。
「村の者たちは、城下の空き家に、肩を寄せあって住んでいる。七年間、ずっと、帰りたいと言いつづけている」
それから、私のほうを向いた。
「リーゼ。ここを、君にやる」
「えっ?」
「好きにしていい。がれきは、全部、君のものだ。土にするなら、村の者を手伝いに出す。種も、道具も、必要なものは全部そろえる」
私は、がれきの山を見た。
割れたれんが。くだけた石。燃えかすの灰。
地下室に、十年間、落とし口から落ちてきたものと、同じ。
でも、ここには、格子窓も、石の壁も、鍵も、ない。
空が、どこまでも広かった。
「……こんなにたくさん」
声が、ふるえた。
「こんなにたくさんのがれき、見たことがありません」
クラウス様が、少しだけ、目を見開いた。
「うれしいのか」
「はい」
私は、うなずいた。
「ここ、全部、畑にできます」
◇
その日から、私の毎日は、すっかり変わった。
朝は、中庭の花壇。
昼は、渡し場の村。
村の人たちは、最初、遠巻きに私を見ていた。
白い髪の、新しい奥様が、がれきの山に手をついて、しゃがみこんでいる。
でも、一つ目のがれきの山が、ひと晩で、黒い畑に変わったとき。
村のおばあさんが、その場に、へたりこんで泣き出した。
「わしの家の、あとじゃ……。わしの家が、畑になった……」
次の日から、村の人たちが、手伝いに来てくれるようになった。
大人たちは、がれきを集めて、私の前に運んでくれた。
子どもたちは、できた土に、種をまいた。
一週間後、雪の下から、いっせいに緑の芽が出たとき。
子どもたちが、わあっと歓声をあげて、畑を走りまわった。
「芽だ! 芽が出てる!」
「冬なのに!」
「奥様、すごい!」
子どもたちが、私のまわりに集まってきた。
泥だらけの私の手を、小さな手で、平気で引っぱる。
「奥様、これ、なんの芽?」
「食べられる?」
「これはね、カブ。こっちは、エンドウ豆。ひと月もしたら、みんなで食べましょう」
「やったー!」
子どもたちが、また走りまわる。
それを見ていたら、ふいに、ほおがゆるんだ。
自分が笑っていることに、少したってから、気がついた。
「泥の手ではない。君の手は、北の宝だ」。
リーゼが、初めて自分の手を、ほめてもらいました。
次回は、侍女アンナから見た「公爵様の様子がおかしい」お話です。




