第45話 分けるための氷
【前回までのあらすじ】
ハンスの四十年の帳面では、壁のあとは、魔物の来る年のあいだが短かった。
「俺の氷は、守ったものまで、冷やす」。
手紙を出した、つぎの朝。
クラウス様は、浅瀬をこえて、まっすぐ、あの氷の端へ行った。
苔をはがしたところから、白い氷がのぞいていた。
クラウス様は、氷のそばに膝をついて、手袋をはずした。
「旦那様。……何を」
トマさんが聞いた。
「俺の氷なら、俺が、ぬける」
◇
クラウス様は、両手を氷にあてて、目をとじた。
はじめは、何も起きなかった。
それから。
ぴし、と小さな音がした。
氷が、土の中から、少しずつもちあがってきた。
土を、まとわりつかせたまま。
クラウス様の手のひらに、すいよせられるように浮いてくる。
雪見村の人たちが、それをかごで受けて、浅瀬へ運んだ。
川に、投げこむ。
十年前の氷は、流れにのって、ゆっくり下流へ遠ざかっていった。
でも、夕方になっても、終わらなかった。
ぬいても、ぬいても、その下から、また白いものが出てくる。
十年かけて、土の奥まで、しみこんだ氷だった。
日がかたむくころ、クラウス様の指先は、白くなっていた。
手袋をはめても、白いままだった。
ぬく作業は、つくるのにくらべて、はるかに手をいためた。
◇
その夜、私は、壁を一度だけたたいた。
こたえは、なかった。
朝、ハンスさんの帳面の一行は、いつもとちがった。
『床の土の、ふちまで』
床の土で、止まりはした。
でも、土のふちの、ぎりぎりだった。
二日目の朝も、クラウス様は、浅瀬を渡った。
◇
二日目は、私も、木箱を降りた。
「……さわるだけだよ」
ヘルガおばあ様が言った。
「はい」
私は、掘ったあとの土に、手のひらをあてた。
つめたい。
土の中を、たどる。
「そこです。もっと、下に」
クラウス様が、私の指さした土に、手をつく。
白いものが、浮いてくる。
「つぎは、右に、ふたあし」
氷がどこに残っているのか、目では見えない。
でも、私の手には、わかった。
私がさがして、クラウス様がぬく。
手が冷えきると、クラウス様は、しばらく私の手をにぎった。
それから、また、土に手をついた。
二人で、と言ったのは、私だった。
三日目の昼。
私の手のひらの下から、つめたさが消えた。
どこまでたどっても、ただの、死んだ土だった。
「……もう、ありません」
クラウス様は、膝をついたまま、長い息をはいた。
指先は、白から、まっ赤にもどっていた。
「……フィン」
クラウス様が言った。
「起こしてやってくれ」
◇
フィンくんは、氷をぬいたあとの土に、両手を置いた。
――起きて。
今度は、すぐだった。
手のひらの下で、灰色が、黒くなっていった。
ヘルガおばあ様が、ふん、と鼻を鳴らした。
「とけてさえ、いりゃね」
◇
森のふちの黒い土は、ひと月で、氷の端から下流へ、ひと続きの帯になった。
フィンくんが、三日ごとに、ひと区切りずつ。
雪見村の人たちは、灰をかぶった落ち葉をどけて、フィンくんの手が、じかに土にとどくようにしていく。
私は、木箱に座って見ていた。
ときどき、ヘルガおばあ様の目をぬすんで、灰色の土に、指先だけふれた。
「リーゼ」
すぐ、ばれた。
◇
黒い土の上には、草が、ひざの高さまでのびていた。
灰色の木の根もとからも、細い緑の枝が出ていた。
そして、獣が、来るようになった。
夕方、私たちが浅瀬を戻ると、森の奥から、一頭、また一頭と出てくる。
黒い土の上で、首を下げて、草を食む。
朝になると、いなくなっている。
でも、困ったことも起きた。
「旦那様。土の帯から、浅瀬まで、獣の足あとが」
トマさんが、岸の泥を指さした。
草を食べた獣が、そのまま、浅瀬まで出てきていた。
浅瀬をこえれば、渡し場の村だった。
このままでは、いつか、こちら岸へ渡ってくる。
◇
その夜、城の大広間で、クラウス様は、地図の上に線を引いた。
向こう岸の、森のふち。
黒い土の帯の、川がわ。
「ここに、垣根を立てる」
「氷の、ですか」
「ああ。獣が、浅瀬に出られないように」
私は、地図を見つめた。
草は、食べられる。でも、浅瀬には、出られない。
十年前の壁は、川の上に立って、何もかもを止めた。
この垣根は、獣を止めない。
森へ、帰すだけ。
◇
垣根は、三日でできた。
クラウス様は、毎朝、浅瀬をこえて、森のふちに手をついた。
――ぴしり。
氷の垣根が、私の腰くらいの高さで立ちあがる。
十年前の壁の、二十分の一もなかった。
垣根の下には、雪見村の人たちが、先に石を一列並べておいた。
クラウス様は、その石の上にだけ、氷を立てた。
森の土には、ひとかけらも、ふれさせなかった。
土と氷は、くっつけない。
王の道で、覚えたことだった。
でも、ここでは、それだけの意味ではなかった。
二日目に、渡し場の村の人たちが、石を運ぶのを手伝いに来た。
◇
三日目の夕方、城に戻って、厩に寄った。
ひとまわり大きくなった子馬が、わらの上で、クラウス様の腕に首をあずけて、眠ってしまった。
手袋の指先は、白くならなかった。
クラウス様は、そのまま、長いこと動かなかった。
戸口で、トマさんが、帽子のつばを少しだけ下げた。
その夜、クラウス様は、壁のむこうで、ゆっくり眠った。
朝、ハンスさんの帳面には、いつもの一行。『床の土で、とまる』。
◇
垣根ができた日の夕方、私たちは、浅瀬のこちら岸で待っていた。
日が、山のむこうへしずんでいく。
森の奥から、獣が出てきた。
一頭。二頭。五頭。
黒い土の帯で、草を食む。
しばらくして、いちばん大きな一頭が顔を上げた。
川のほうへ、歩きだす。
垣根に、ぶつかった。
獣は、鼻先で氷をつついた。
前足で、ひっかいた。
それから、向きを変えて、森の中へ戻っていった。
ほかの獣たちも、一頭ずつ、森へ帰っていった。
「……行った」
トマさんが、小声で言った。
クラウス様は、こちら岸の土手の上で、最後の一頭が森へ消えるまで、立っていた。
「よかったですね」
私が言うと、クラウス様は首をふった。
「草が、ある間だけだ」
向こう岸の、黒い土の帯を見る。
「冬になれば、草は、枯れる」
土手の下の道に、白いひげの人が立っていた。
将軍だった。
赤いマントの兵を、二人だけつれていた。
将軍は、森へ帰っていく獣の列を、最後まで見ていた。
それから、何も言わずに、城下のほうへ戻っていった。
冬のはじめまで、あと、ふた月だった。
次回、「将軍の火」。
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