第44話 ハンスの帳面
【前回までのあらすじ】
森のふちの木かげで、フィンの手が止まった。「凍って、死んだ土です」。
苔の下の白い氷に手をあてて、クラウスは言った。「俺の氷だ」。
つぎの朝、ハンスさんは、大広間のテーブルに、帳面を三つの山にして並べた。
いちばん手前の山は、表紙がまだ新しかった。
「十年前の夏からの、城の日々の帳面でございます」
ハンスさんは、いちばん上の一冊をひらいた。
今と同じ、こまかい、まっすぐな字。
『夏。旦那様、渡し場にて、壁を立てられる』
◇
つぎのページから、毎朝、同じような一行が続いていた。
『向こう岸、壁のあと、白し』
『向こう岸、白し』
『向こう岸、まだ、白し』
「城の塔から、毎朝、渡し場を見ておりました」
ハンスさんが言った。
「壁は、ひと月でとけて、流れました。こちら岸のほうから。ですが、向こう岸の、森のかげのところだけ、白いものが残りました」
ページを、めくる。
秋。
『向こう岸、白し』
初雪。
『向こう岸、雪の下』
春。雪がとけた日の一行。
『向こう岸、まだ、白し』
夏。
『向こう岸、白し。森のふち、葉をつけず』
クラウス様の指が、その行の上で止まった。
◇
ハンスさんは、二冊目をひらいた。
『森のふち、灰色』
三冊目。
『灰色、ひろがる』
四冊目の、夏のページに。
『向こう岸、白、消ゆ。木、たおれて、おおう』
それから先、『白し』の行はなかった。
かわりに、毎年、夏のはじめに一行。
『灰色、ひろがる』
上の白いものは、四年目に消えた。
とけたのだと、誰もが思った。
土の中で、ずっと、凍ったままだったのに。
ハンスさんが、帳面を閉じた。
「何なのか、わかりませんでした。森が枯れていくのは、寒い夏のせいだと思っておりました。……わたくしも」
◇
ハンスさんは、二つ目の山をくずした。
表紙が茶色くすりきれた、古い帳面だった。
「こちらは、先々代様のころからの、城の帳面でございます。毎年の麦の買いつけと、天気を、書きとめてあります」
何冊かをひらいて、並べる。
「魔物が渡ってきた年に、印をつけました」
四十年のあいだに、印は六つ。
十年前の夏。おととしの冬。この夏の、一頭。
それより前に、三つ。
「寒い夏のあとに、森が飢えて、獣が渡ってくる。それは、わかっていたことですが」
ハンスさんは、古い帳面の、印と印のあいだを指でなぞった。
「ですが、昔は、魔物の年と年のあいだが、十年も、十五年も、あいておりました」
それから、指を、新しいほうへすべらせた。
十年前。
おととしの冬。
この夏。
「壁のあとは、あいだが、短うございます」
◇
広間が、しずかになった。
クラウス様は、テーブルに両手をついていた。
手袋の指先から、テーブルの木目に、うっすらと霜がひろがっていく。
ハンスさんがだまって、帳面を、霜のとどかないところへよけた。
「……守ったつもりだったのに」
クラウス様が言った。
それだけだった。
私は、何も言えなかった。
壁がなければ、渡し場の村の人たちは、あの夏、死んでいた。
壁があったから、森のふちは、凍って死んだ。
どちらも、本当だった。
◇
夕方、クラウス様は、いつもどおり厩へ行った。
私も、ついていった。
トマさんが何も言わずに、子馬のそばをあけてくれた。
クラウス様は、わらに膝をついて、子馬の首に腕をまわした。
ひとつ。ふたつ。
みっつめで、手袋の指先が白くなった。
子馬の首の毛に、霜がついた。
春の、はじめての日と同じだった。
クラウス様は、すぐに腕をはなした。
子馬は、ぶるっと首をふった。
でも、逃げなかった。
母馬のおなかにも、もぐりこまなかった。
クラウス様の膝に、鼻先を、ぐいとおしつけた。
もっと、と言うように。
クラウス様は、子馬を見おろしたまま、動かなかった。
トマさんが、わらをかきよせながら言った。
「……子馬は、明日も、ここにいます」
それだけ言って、桶を持って、外へ出ていった。
◇
その夜、クラウス様は、陛下あての手紙を書いた。
帳面の写しと、いっしょに。
私は、となりの部屋の寝台に座って、それを見ていた。
ペンが、紙の上で何度も止まった。
「将軍様に、読まれますよ」
「読まれていい」
クラウス様は、ペンをインクつぼにひたした。
「寒い夏のことだけ書いて、壁のことを書かないのは、ちがう」
それから、長いあいだ書いていた。
書きおえて、封をする。
その手を、しばらく見ていた。
「俺の氷は、守ったものまで、冷やす」
私は立ちあがって、クラウス様のとなりに座った。
その手を、両手で取った。
冷たかった。
「だから、とかしに行くんです」
私は、言った。
「二人で」
クラウス様は、私の手を、にぎりかえした。
霜は、降りなかった。
次回、「分けるための氷」。森のふちで、クラウス様の番です。
マジで☆何個でもいいので、つけてください!




