第43話 苔の下
【前回までのあらすじ】
となりの部屋の床と壁を土にすると、眠っているあいだの霜は、黒い土のところで止まった。
「今夜から、ここで眠る。壁ひとつなら、声は、聞こえる」。
となりの部屋で、クラウス様が眠るようになって、四日。
ハンスさんの帳面の一行は、毎朝、同じだった。
『床の土で、とまる』
その朝も、私たちは浅瀬を渡った。
フィンくんの、三枚目の土をつくりに。
◇
ヘルガおばあ様は、二枚目の黒い四角の、すぐ上流で立ちどまった。
浅瀬から上がってすぐの、森のふち。
大きな木の影がかぶさって、昼でもうす暗い。
「ここにしよう。川に、いちばん近い」
おばあ様が、杖で四角い線を引いた。
トマさんが、まわりを見まわした。
「……ほかの木は、枯れても立ってるのに。ここのだけ、たおれてますね」
ほんとうだった。
まわりの枯れた木は、灰色のまま、立って死んでいる。
でも、ここの木だけは、根もとからたおれて、幹がぼろぼろにくさっていた。
たおれた木の上にも、地面にも、黒ずんだ苔が厚くかぶさっている。
灰色の森で、そこだけ、色がちがった。
ここだけ、何か、わけがあるはずだった。
◇
フィンくんは、四角のはしにしゃがんで、苔を少しだけどけた。
両手を、置く。
――起きて。
唇が動いた。
何も、変わらなかった。
フィンくんは、手を置きなおした。
もう一度。
もう一度。
昼になっても、土は灰色のままだった。
「……起きない」
ひっこめた指先が、赤くなっていた。
「冷たい。手が、いたくなる」
ヘルガおばあ様が、杖をついて四角のなかに入った。
しゃがんで、しわだらけの手を、土に置く。
しばらくして、首をふった。
「わたしの手じゃ、とどかない。……深いね」
◇
おばあ様は、ふり返って、木箱に座っている私を見た。
長いこと、見ていた。
「……さわるだけだよ。起こすんじゃない」
「はい」
クラウス様が、私の手を引いて立たせてくれた。
四角のはしまで、いっしょに歩く。
私は、ゆっくりひざをついた。
おなかが、つかえた。
苔をどけた灰色の土に、手のひらをあてる。
つめたかった。
向こう岸にはじめて渡った日、手のひらの、ずっと下のほうに感じたつめたさ。
それが、ここでは、すぐそこにあった。
土の中を、たどっていく。
下へ。
もっと、下へ。
土は、何もこたえなかった。
中に、何ものこっていない。東の畑と、同じだ。
でも、なくなり方が、ちがった。
東の畑は、十年かけて、薬草に少しずつ力を持っていかれた。
この土は、ある日いっぺんに凍って、そのまま何年もとけなかった。
そのあいだに、中で生きていたものが、みんな死んだ。
「……凍って、死んだ土です」
私は、手をはなした。
「まだ、とけていません。下のほうが」
◇
トマさんと村の男の人たちが、シャベルで苔をはがした。
苔の下は、くさった落ち葉。
その下は、灰色の、しめった土。
シャベルが、こつん、と何かに当たった。
「……石か?」
トマさんが、手で土をかきわける。
灰色がかった、白いもの。
かたくて、つるりとしていた。
トマさんが、手をひっこめた。
「つめてえ」
氷だった。
秋の昼の光の下に出てきたのに、すぐにはとけなかった。
男の人たちが、まわりを掘っていく。
氷は、土の中を、たおれた木の下まで、ずっと続いていた。
日のささない木かげで、苔と落ち葉にふたをされて、ずっと、ここに。
◇
クラウス様が、掘ったところにおりた。
手袋をはずして、白い氷に、はだかの手をあてる。
クラウス様の手は、氷にふれても、白くならなかった。
長いこと、そうしていた。
「……旦那様」
トマさんが、小さく呼んだ。
クラウス様は、氷から手をはなさなかった。
「俺の氷だ」
誰も、何も言わなかった。
クラウス様は、ゆっくり立ちあがって、川をふり返った。
浅瀬の向こうに、渡し場の村の、黒い土手。
十年前の、氷の壁。
壁といっても、うすい板ではない。川のはばいっぱいを埋めた、塔ほどの氷のかたまりだった。
――壁の端は、向こう岸の、森のふちに、くいこんでいた。
将軍の声を、思い出した。
木が何本も、氷の中で、立ったまま白くなっていた、と。
その端が、ここだった。
川の水は、岸の土の下にも、しみこんでいる。
あの夜、川といっしょに、その水まで、土の中で凍ったのだ。
私は、まわりの木を見た。
ここの木は、たおれて、くさっている。
少しはなれると、立ったまま、灰色に死んでいる。
もっとはなれると、灰色の木のあいだに、ちぢれた葉をつけた木が、まだまじっていた。
ここから、扇をひろげるように。
いちばん古い死が、ここにあった。
◇
帰りの浅瀬で、クラウス様は、一度もふり返らなかった。
私の手を、引いていた。
いつもと同じ、少しだけ冷たい手。
でも、にぎる力が、いつもより強かった。
城に着くと、クラウス様はハンスさんに言った。
「十年前の、夏からの帳面を、出してくれ。あの森が、いつから死にはじめたのか、知りたい」
ハンスさんは、何も聞かずに、頭を下げた。
◇
その夜、私は二人の部屋の寝台で、眠れずにいた。
壁のむこうは、となりの部屋。
寝台のきしむ音も、寝返りの音も、しない。
クラウス様は、まだ、起きている。
私はゆっくり起きあがって、壁に手をついた。
私がつくった、土の壁。
ほんのり、あたたかかった。
こぶしで一度だけ、そっと、たたいた。
しばらく、何もかえってこなかった。
それから。
壁のむこうから、こつん、と、一度だけ。
次回、「ハンスの帳面」。十年前の夏から、ハンスさんが書きつづけていたことです。
マジで☆何個でもいいので、つけてください!




