第42話 となりの部屋
【前回までのあらすじ】
雪見村から助っ人が来て、少年フィンが、はじめて畑一枚ぶんの森の土を起こした。
つぎの朝、黒い土に草の芽。森の奥から、獣が一頭、においをかいでいた。
春から、クラウス様は、夜になると、回廊の奥の客間で、ひとりで眠っていた。
私が眠るまでは、となりにいる。
私が眠ると、そっと、出ていく。
朝は、客間の霜を見てから、朝ごはんに来る。
ハンスさんの帳面の一行は、春から、一日も、とぎれていなかった。
◇
フィンくんが、森のふちで、二枚目の土を起こした日の夜。
私は、ハンスさんに、帳面を見せてもらった。
春からの、毎朝の一行。
『毛布のはしまで』
『毛布のはしまで』
『毛布のはしまで』
ほとんどが、それだった。
クラウス様の寝台の、毛布のはし。
赤ちゃんを寝かせるなら、ちょうど、そこだった。
ところどころに、ちがう一行が、まじっていた。
『床を這って、扉の下まで』
浅瀬に、氷の板を並べた日の、つぎの朝。
それから、夏のおわりの、何もしなかった日の、つぎの朝にも、一度だけ。
『床を這って、扉の下まで』
客間の床は、石だった。
◇
その夜、私は、ヘルガおばあ様に、聞いた。
「おばあ様。土の手の土は、凍らないんですよね」
「凍らないよ。あったかいからね」
「氷が、土にふれたら」
「とける。だから、王の道では、あいだに石を並べたんだろう」
おばあ様は、お茶をすすって、それから、私の顔を見た。
「……何を、考えてるんだい」
「部屋を、つくりたいんです」
私は、言った。
「二人の部屋の、となりに。床と、壁を、土にしたら、霜は、土で、とまるかもしれません」
「とまったら」
「クラウス様が、回廊のいちばん奥じゃなくて、壁ひとつむこうで、眠れます。……赤ちゃんが、夜に泣いても、聞こえるところで」
◇
二人の部屋と、壁ひとつへだてた、となりの、使っていない部屋。
床は石。壁も石。
おととしの冬、魔物の夜に、城の古い石垣をくずした。そのときの残りのがれきが、まだ、中庭のすみに山になっていた。
雪見村の人たちと、城の人たちが、それを、かごで二階へ運びあげた。
床に、厚く敷く。
二人の部屋がわの、壁ひと面にそって、積みあげる。
それから。
「フィン。床をやってごらん。……リーゼは、その壁の、ひと面だけ」
おばあ様が言った。
「ひと面だけ」
「ひと面だけ。それ以上やったら、わたしが、杖でたたくよ」
◇
三日かかった。
がれきは、黒い、しっとりした土になった。
床は、ふむと、少しだけ、やわらかかった。
壁は、手をあてると、ほんのり、あたたかかった。
フィンくんは、床を、四つんばいで、すみからすみまで、手のひらで、たどっていった。
ひざが、まっ黒になった。
私は、壁のひと面に、両手をついた。
石のがれきが、手のひらの下で、ほどけていく。
ひと面だけ。
フィンくんの床のほうへ、手がのびかけたとき、うしろで、杖が、床を、こつんと、たたいた。
「……はい」
私は、手を、下ろした。
部屋の入り口では、クラウス様が、腕を組んで、立っていた。
三日のあいだ、毎日、そこに立っていた。
手は出さなかった。
氷の手では、手伝えないから。
四日目の夕方、部屋のまんなかに、客間の寝台を運びこんだ。
クラウス様は、はじめて、部屋の中に、入ってきた。
黒い床を、見おろした。
それから、私の手を見た。
爪のすきまが、黒かった。
クラウス様は、何も言わなかった。
「ためしてください。今夜、ひとりで」
「……リーゼ」
「明日の朝、見に来ます」
◇
その夜、私は、二人の部屋で、ひとりで眠った。
眠ったふりを、して。
本当は、ほとんど、眠れなかった。
廊下を、一度だけ、のぞきに行った。
となりの部屋の扉のすきまから、冷気は、もれていなかった。
寝台にもどる前に、もう一度だけ、廊下に出た。
となりの部屋の扉の前に、人がいた。
トマさんだった。
両腕に、毛布を、ひとかかえ、持っていた。
私に気づくと、トマさんは、少しだけ、気まずそうに、笑った。
「……奥様。おやすみじゃなかったんですか」
「トマさんこそ」
トマさんは、扉を見た。
冷気は、もれていなかった。
「旦那様の部屋に、毛布を運ぶのは、十年ぶりです」
トマさんは、毛布を、扉の前の床に、そっと、置いた。
扉は、あけなかった。
「石の床だと、朝には、毛布が、霜で、ぐっしょりでしたから。……床が土なら、もう、ぬれないでしょう。あした、旦那様に、わたしてください」
トマさんは、少し足をひきずりながら、廊下を、戻っていった。
私は、扉の前の毛布を、しばらく、見ていた。
それから、二人の部屋に戻って、寝台にもぐりこんだ。
◇
朝。
アンナより早く起きて、となりの部屋の扉を、そっと開けた。
クラウス様は、寝台の上で、あおむけに、眠っていた。
寝息が、ゆっくりだった。
寝台の上は、白かった。
毛布も、まくらも、霜で、まっ白だった。
寝台の脚にも、白い霜が、びっしりと、這っていた。
霜は、寝台の脚をつたって、床まで、おりていた。
そして、そこで、止まっていた。
床の、黒い土の上で。
霜は、土にふれたところから、とけて、小さな水の粒になっていた。
黒い土は、その水を吸って、しっとりと、つやを帯びていた。
扉の下まで、霜は、一すじも、届いていなかった。
私は、しゃがんで、床の土に、手のひらをあてた。
あたたかかった。
うしろで、帳面をひらく音がした。
ハンスさんが、戸口に立っていた。
毎朝、客間で、そうしていたように。
きのうも、クラウス様は、浅瀬に、氷の板を並べた。
客間なら、『床を這って、扉の下まで』の朝だった。
ハンスさんは、いちばん下の、新しい行に、書いた。
『床の土で、とまる』
「……リーゼ」
寝台の上で、クラウス様が、目をあけていた。
自分の毛布の、白い霜を見て。
それから、床を見た。
扉を、見た。
長いこと、見ていた。
「何時間、眠った」
「わかりません。私が来たときには、もう」
クラウス様は、寝台から、足をおろした。
はだしで、黒い土の床に、立った。
足の下で、霜のかけらが、じゅっと、とけた。
クラウス様は、私がつくった壁に、手をあてた。
壁のむこうは、二人の部屋だった。
「……今夜から、ここで眠る」
クラウス様が言った。
「ひとりで、ですか」
「ひとりでだ」
クラウス様は、壁に、手をあてたまま、言った。
「壁ひとつなら、声は、聞こえる」
私は、うなずいた。
クラウス様は、壁から手をはなして、私の手を取った。
起きているときの、クラウス様の手は、少しだけ、冷たかった。
いつもと、同じに。
次回、「苔の下」。森のふちで、フィンくんの手が、止まります。
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