第37話 向こう岸
【前回までのあらすじ】
夏の浅瀬を渡ってきたやせた魔物は、畑を見つめたまま、倒れた。口の中には、枯れた木の皮。
クラウスは、向こう岸の森を見に行くと決めた。
クラウス様は、最後まで、反対した。
「身重の妻を、魔物の森に連れていく夫が、どこにいる」
「森の中には、入りません。ふちの土を、さわるだけです」
「だめだ」
「クラウス様は、土のことは、わからないでしょう」
クラウス様は、口をつぐんだ。
それから、長いため息をついた。
「……森のふちまで。俺から、一歩もはなれるな。トマと、村の男を五人、連れていく」
◇
夏の浅瀬は、ひざの下くらいの深さだった。
クラウス様が、水の上に、右手をかざす。
――ぴしり。
水の上に、氷の板が、一枚。
人が一人、歩けるくらいの幅の、うすい板。
その先に、もう一枚。また、一枚。
石から石へ、飛び石のように、氷の板が、向こう岸へ、のびていった。
「短いのを、並べるだけだ。川を凍らせるわけじゃない」
クラウス様は、私の手を取って、先に、板にのった。
板は、つめたかった。
でも、すべらなかった。表面が、こまかく、ざらざらにしてあった。
うしろから、トマさんと、村の男の人たちが、シャベルと槍を持って、ついてくる。
浅瀬のまんなかで、私は、ふり返った。
渡し場の村が、見えた。
黒い畑が、二十枚。岸ぞいの、黒い土手。
十年前、向こう岸から、魔物は、この景色を見ていたのだ。
◇
向こう岸に、足をつけた。
森は、しずかだった。
鳥の声が、しなかった。
虫の声も。
木々は、夏なのに、葉を落としていた。
枝も、幹も、灰色だった。手でふれると、皮が、ぼろぼろと、はがれた。
足もとの土も、灰色だった。
かわいていた。
白っぽくて、かさかさで、ふむと、粉のように舞いあがった。
私は、しゃがんだ。
クラウス様が、すぐ横に、しゃがんだ。
土に、手のひらを、あてる。
――ああ。
知っている。
この土を、私は、知っていた。
「……伯爵家の、東の畑と、同じです」
「東の畑?」
「私が、三年、土を足さなかった畑です。力を、ぜんぶ、使いきった土」
ミレイユの手紙で、知ったことだった。
私が嫁いで、袋が止まって、いちばん先に死んだ畑。
あの畑の土も、きっと、こんな色をしていた。
でも。
手のひらの、ずっと下のほうが、つめたかった。
夏の、昼なのに。
地下室の冬の、石の床みたいに。
東の畑は、十年、薬草に、力を持っていかれた。
この森の土は、誰に、持っていかれたのだろう。
「森が、死にかけているんです」
◇
そのとき、トマさんが、低い声で言った。
「旦那様。……奥のほう」
灰色の木々の、ずっと奥。
影が、いくつも、こちらを見ていた。
浅瀬で死んだ一頭と、同じ形。
狼に似た、馬ほどの大きさの、灰色の獣。
十頭。いや、もっと。
村の男の人たちが、槍をかまえた。
クラウス様が、立ちあがって、私の前に出た。右手が、上がる。
でも、影は、動かなかった。
近づいてこない。
うなりもしない。
木々のあいだに、じっと、立ったまま。
私たちを、遠まきに、見ていた。
いちばん前の一頭が、鼻先を、少しだけ、上げた。
風のにおいを、かいでいるようだった。
私のほうを、見ていた。
いや。
私の、おなかのあたりを。
「……リーゼ。下がれ」
クラウス様が、私の腕をつかんだ。
私は、ゆっくり、あとずさった。
影は、追ってこなかった。
浅瀬の氷の板にのって、まんなかまで戻ってから、ふり返ると、獣たちは、森のふちまで出てきていた。
それでも、川には、一頭も、入ってこなかった。
◇
浅瀬のまんなかで、私は、腰の袋から、小さな布袋を出した。
向こう岸で、しゃがんだときに、灰色の土を、ひとつかみ、入れておいたのだ。
「何をしている」
クラウス様が、ふり返った。
「ためしたいことが、あるんです」
私は、袋の口をあけて、灰色の土を、手のひらに、のせた。
かさかさで、軽かった。
息をふきかけたら、飛んでいきそうだった。
「リーゼ。ここは、川のまんなかだ。……手を使うのは、岸に戻ってからにしろ」
「手のひらの上だけです。すぐ、すみます」
クラウス様は、何か言いかけて、やめた。
かわりに、氷の板の上で、私のうしろに、ぴったりと立った。
私は、手のひらの土に、もう片方の手を、かぶせた。
目をとじる。
がれきを、土にするときとは、ちがった。
がれきは、かたい。ほどいて、ほどいて、やっと、土になる。
この土は、もう、土だった。
王の道の、昔の土に、似ていた。死んでいるのではなく、眠っているだけの土。
でも、あのときより、ずっと、深く、眠っていた。
何も、こたえなかった。
手のひらの下で、ずっと、だまっていた。
それでも、私は、手をはなさずに、待った。
ずいぶん、たってから。
ほんの少しだけ、土が、こたえた。
手のひらの下が、あたたかくなった。
手をひらくと、灰色の土の、まんなかだけ、親指の先くらい、黒くなっていた。
しっとりと、湿っていた。
「……生きかえった」
うしろで、トマさんが、言った。
私は、黒くなった土を、布袋に、そっと、もどした。
がれきなら、ひと晩で、畑一枚ぶんの土になる。
この土は、ひとつまみで、これだけ、かかった。
向こう岸の森は、大河にそって、見えなくなるまで、続いていた。
◇
城に戻ったのは、夕方だった。
城門の前に、見なれない馬が、三頭、つながれていた。
王家のしるしの、鞍。
ハンスさんが、城門の内側で、私たちを待っていた。
いつもより、顔色が、悪かった。
「旦那様。王都から、早馬です」
ハンスさんは、手紙を差しだした。
「この夏、また魔物が浅瀬を渡ってきたことが、王宮に知れました。おととしの冬のこともございますので……将軍閣下が、北へ、兵をつれて、お見えになるそうです」
次回、「将軍」。王都から、北のやり方を知らない人が来ます。
マジで☆何個でもいいので、つけてください!




