第36話 夏の浅瀬
【前回までのあらすじ】
眠っているあいだの氷は、止められない。「抱けるのか。俺は」。
方法を見つけるまで、眠るときだけ、クラウスは客間で、と決めた。
つぎの夜から、クラウス様は、私が眠るのを待って、枕をかかえて、回廊の奥の客間へ行くようになった。
三日目の朝。
厨房の戸口で、アンナと料理長が、ひそひそ話していた。
「ゆうべも、旦那様が、枕をかかえて」
「……けんか、か」
「奥様、あんなおなかなのに」
私が入っていくと、二人とも、ぴたりと、だまった。
「けんかじゃ、ないわ」
アンナは、まだ、心配そうな顔をしていた。
料理長は、私のスープに、肉を、二切れ、足した。
◇
朝、私が客間をのぞきに行くと、いつも、もう、ハンスさんが来ていた。
クラウス様が、寝台の霜を見る。
ハンスさんが、それを、帳面に、一行、書く。
『毛布のはしまで』
それが、毎朝の決まりになった。
夕方には、ハンスさんが、薪のかごをさげて、回廊の奥へ歩いていった。
私に気づくと、小さく頭を下げて、何も言わずに、通りすぎた。
◇
春のおわり、城の厩で、子馬が生まれた。
その朝、厩をのぞいたクラウス様が、わらの上の子馬を、じっと見ていた。
「……生まれる前に、ためしておきたい」
私にだけ聞こえる声で、そう言った。
トマさんは、何も聞かずに、子馬のそばを、あけてくれた。
クラウス様は、わらに膝をついて、子馬の首に、そっと、腕をまわした。
クラウス様の腕が、かたくなった。
肘も、肩も。
手袋の指先に、白い霜が、にじんだ。
子馬の首の毛に、霜が、ついた。
クラウス様は、すぐに、腕を、はなした。
ひと呼吸も、なかった。
子馬は、ぶるっと首をふって、母馬のおなかに、もぐりこんだ。
「……すまない」
厩を出てから、クラウス様は、ずっと、自分の手袋を見ていた。
城門の前で、言った。
「明日も、厩へ行く」
「はい」
◇
夏になった。
大河の水が、少なくなった。
渡し場の浅瀬では、川底の黒い石が、水の上に、頭を出しはじめていた。
十年前、魔物の大群が渡ってきたのも、こんな夏だった。
だから、夏のあいだ、渡し場の村では、昼も夜も、見張りを立てる。
その日の昼の見張りは、ペーターくんだった。
◇
「奥様! 奥様!」
外の教室に、ペーターくんが、かけこんできた。
その日は、月に一度、フィンくんが習いに来る日だった。
私は、木の椅子に座って、フィンくんが、がれきに手を置くのを見ていた。
クラウス様に、「座って教えろ」と言われているので。
「浅瀬に! 向こう岸から、一頭だけ!」
フィンくんの手が、止まった。
「一頭?」
「一頭です! でっかいのが、一頭だけ、渡ってきてます!」
◇
私が岸に着いたとき、村の人たちは、もう、シャベルと荷車の取っ手をにぎって、土手の上に並んでいた。
おととしの冬に、村の人たちがつくった、黒い土手。
浅瀬のまんなかを、灰色の影が、ゆっくり、こちらへ歩いてくる。
狼に、似ていた。
でも、馬ほどの大きさがあった。
「奥様は、下がって!」
村長が、私の前に、両手をひろげた。
蹄の音がした。
クラウス様が、城から、馬で飛んできたのだ。
馬からおりるなり、浅瀬に、右手をかざした。
――ぴしり。
魔物の前に、低い氷の塀が、ひと筋、立った。
魔物は、塀の前で、止まった。
うなりもしなかった。
牙も、むかなかった。
ただ、首を、だらりと下げて、塀のむこうの、青いカブ畑を、じっと見ていた。
◇
魔物は、長いこと、畑を見ていた。
あばら骨が、灰色の毛の下に、一本ずつ、うきでていた。
腹は、背中にくっつきそうなほど、へこんでいた。
「……やせてる」
フィンくんが、私のうしろで、小さく言った。
やがて、魔物は、前足を折った。
そのまま、浅瀬の石の上に、横だおしになった。
誰も、動かなかった。
クラウス様が、塀をこえて、浅瀬に下りた。
右手を、魔物の首のうしろに、かざす。
凍らせれば、それで、終わる。
でも、クラウス様の手は、そこで、止まっていた。
魔物の胸は、もう、ほとんど、動いていなかった。
◇
夕方、魔物は、浅瀬の上で、息をしなくなった。
村の人たちが、荷車で、岸まで引きあげた。
私は、クラウス様にとめられながら、そばに、しゃがんだ。
灰色の毛に、そっと、ふれる。
ざらざらしていた。
毛のあいだから、白っぽい粉が、ぱらぱらと落ちた。
指先を、鼻に近づける。
かわききった、土のにおいがした。
「リーゼ」
「口の中に、何か」
クラウス様が、魔物の口を、手袋の手でこじあけた。
歯のあいだに、木の皮が、はさまっていた。
灰色に、かさかさに枯れた、木の皮。
食べられるものでは、なかった。
「……これしか、食べるものが、なかったんでしょうか」
クラウス様は、答えなかった。
ただ、大河の向こうの、黒い森を見ていた。
夏なのに、森のふちの木々は、葉を落としていた。
遠くから見ても、灰色だった。
◇
夜になっても、村の人たちは、魔物のまわりから、はなれなかった。
ペーターくんのおばあさんが、杖をついて、近づいてきた。
「……おととしの冬に、氷の上を来たのも、十年前に来たのも、こいつらだよ」
おばあさんは、灰色の毛を、杖の先で、つついた。
「十年前は、何百頭も。畑をふみあらして、家の戸をこわして。わたしらは、城下へ逃げた」
「おばあちゃん」
ペーターくんが、おばあさんの袖を引いた。
「でも、こいつ、なんにも、しなかったよ」
おばあさんは、だまった。
村長が、たいまつを持って、やってきた。
「旦那様。こいつは、どうします。焼きますか」
クラウス様は、しばらく、魔物を見おろしていた。
「埋めろ」
「埋める?」
「土手の、外に。……焼けば、においが、川の向こうまで、とどく」
村の男の人たちが、シャベルを持って、土手の外の、畑にしていない地面を、掘りはじめた。
深い穴だった。
魔物を、穴の底に、落とす。
その上に、土をかぶせていく。
私は、穴のふちに、しゃがんで、土に、手を置こうとした。
「リーゼ」
クラウス様が、私の手首を、つかんだ。
「……はい」
私は、手を、ひっこめた。
かわりに、ペーターくんが、小さな手で、土を、ひとすくい、かけた。
◇
その夜、城の大広間で、ハンスさんが言った。
「向こう岸の森のことは、城の誰も、くわしくは知りません。渡った者は、おりませんので」
「渡れる」
クラウス様が言った。
「夏の浅瀬なら。氷の板を並べれば、足を濡らさずに、向こう岸まで行ける」
「旦那様、それは」
「森で、何が起きているのか、見てくる」
クラウス様は、窓の外の、暗い川を見た。
「夏に、一頭。……冬になれば、また、群れで来る」
私は、テーブルの上で、手を組んだ。
十年前、渡し場の村をこわした魔物。
おととしの冬に、何百頭も渡ってきた魔物。
そして、今日、畑を見ながら、静かに死んでいった、一頭。
「私も、行きます」
クラウス様が、ふり返った。
「だめだ」
「森のふちの、土を、さわってみたいんです」
私は、昼間、魔物の毛から落ちた白っぽい粉を、思い出していた。
あの粉の、色。
どこかで、見たことがあった。
次回、「向こう岸」。はじめて、大河の向こうへ渡ります。
マジで☆何個でもいいので、つけてください!




