第2話 「君を愛するつもりはない」
【前回までのあらすじ】
伯爵家の長女リーゼは、がれきを肥沃な土に変える手を「泥の手」と呼ばれ、十年間、地下室で土をつくらされてきた。
屋敷の薬草畑がリーゼの土でできあがると、家族は「もう用はない」と言った。
そして、妹ミレイユの身代わりとして、北の「氷の公爵」のもとへ送り出された。
今回は、北の城で、公爵クラウスと初めて顔を合わせるお話です。
公爵領に着いたのは、五日目の夕方だった。
北へ進むほど、空気は冷たくなっていった。
窓の外は一面の銀世界。畑らしいものは、どこにも見えない。
「北の地では、麦も野菜も、ほとんど育ちません」
向かいの席のハンスさんが、静かに教えてくれた。
「食べるものは、すべて南から運んでおります。冬に雪で道がふさがれば、それも途絶える。……旦那様が植物の手の奥様を望まれたのは、そのためでございます」
ハンスさんは、そこで言葉を切った。
それから、静かに、私の膝の上の手を見た。
「失礼ながら、お迎えにあがったとき、奥様のお手を拝見いたしました」
私は、手をにぎりしめた。
「大切に育てられたお嬢様の手は、あのようにはなりません。毎日、何年も、つらい仕事をなさってきた方の手です」
ハンスさんは、ていねいに頭を下げた。
「植物の手の令嬢と評判なのは、妹君のほうでございましょう。奥様は、その方ではない。……ちがいますか」
「……はい。申し訳ございません」
「奥様が謝ることではございません」
責めるような声ではなかった。ただ、少しだけ、さみしそうだった。
「旦那様には、わたくしからお伝えしておきます。次の宿場から、早馬を出しますので」
◇
ヴァルトシュタイン城は、灰色の石でできた、大きなお城だった。
大広間には、使用人の方々がずらりと並んでいて、私を見て、少しざわついた。
白い髪。白い肌。古いドレスに、鞄一つ。
「伯爵家のお嬢様」には、とても見えなかったと思う。
そのとき、大広間の空気が、すうっと冷えた。
階段の上に、一人の男の人が立っていた。
背が高い。
銀色の髪に、氷みたいに薄い青の瞳。
黒い軍服の肩に、雪の結晶の紋章。
――クラウス・ヴァルトシュタイン公爵様。
北の英雄、と聞いていた。
七年前、たった一人で、北の大河を一晩で凍らせて、攻めてきた魔物の大群を、氷の壁で止めたお方。
「大河の氷壁」の話は、地下室にいた私でも、格子窓の外を通る使用人たちのうわさ話で知っていた。
公爵様は、階段を下りてきて、私の前で止まった。
それから、私の顔を見て、ほんの少しだけ、目を見開いた。
白い髪に、驚いたのかもしれない。
「……ハーヴェル伯爵家の、リーゼ嬢か」
「はい」
「手は」
短い問いだった。
「……ありません。申し訳ございません」
泥の手のことは、言わなかった。
あれは、「手」と呼べるようなものじゃない。継母に、十年、そう言われてきた。
公爵様は、しばらく黙っていた。
「そうか」
返ってきたのは、それだけだった。
「ハンス。部屋へ案内しろ。話は、夕食のあとだ」
◇
夕食のあと、私は、公爵様の執務室に呼ばれた。
公爵様は、机の向こうに座ったまま、一枚の紙を、私の前に置いた。
「先に、言っておく」
青い瞳が、まっすぐに私を見た。
「君を愛するつもりはない」
「……」
「この結婚は、王命だ。陛下は、俺が今年じゅうに妻を迎えなければ、国境を任せられないと言い出した。俺の手は、ひとりで置いておくには危なすぎるそうだ」
公爵様は、自分の右手を、ちらりと見た。
「どうせ迎えるなら、北の役に立つ妻をと思った。植物の手の娘なら、この土地に畑を作れるかもしれないと。……だが、それはもういい。君のせいではない」
公爵様は、紙を指でとんと叩いた。
「一年だ。一年たったら離縁する。理由は、俺の側の問題ということにする。君の名に、傷はつかない。離縁のときには、君が一人で暮らしていけるだけの金を渡す」
「……」
「それまでの一年は、好きにしていい。城のものは、何を使ってもかまわない。俺に、かまう必要もない。夜会に出ろとも言わない。ただ――」
公爵様の声が、少しだけ、低くなった。
「俺の部屋には、近づくな。とくに、夜は。それだけだ」
執務室が、静かになった。
私は、紙に書かれた文字を、上から順番に読んだ。
一年後に、離縁する。
その間、公爵夫人として、この城で暮らす。
そして、最後の一行。
――その間、妻は、自由に過ごしてよい。
「自由に……」
声に出してみた。
よく、わからなかった。
自由に、と言われても。
十年間、鍵のかかった部屋にいた私には、それがどういうことなのか、すぐには思いつかなかった。
「不満なら、今のうちに言え」
「いいえ」
私は、首を横に振った。
「不満なんて、ありません」
本当だった。
愛されないのには、慣れている。
離縁されても、帰る場所がないのにも、慣れている。
公爵様は、私の顔を、じっと見ていた。
それから、少しだけ、眉をひそめた。
「……泣かないのだな」
「泣く理由が、ありませんから」
これまでの令嬢たちは、きっと、ここで泣いたのだろう。
でも、私は泣かなかった。
泣き方を、もう、忘れてしまっていた。
公爵様は、紙を、もう一枚、重ねた。
「では、ここに名を。契約書と、王宮への婚姻の届けだ」
私は、ペンを取って、二枚の紙に、名前を書いた。
リーゼ・ハーヴェル。
ミレイユの名前ではなく、私の名前を。
公爵様は、届けのほうの紙を、しばらく見ていた。
「……リーゼ、か」
それだけ言って、二枚の紙を、引き出しにしまった。
「一つだけ、確認させてください」
「なんだ」
「鍵は、かかりますか」
公爵様が、眉を寄せた。
「……なんの話だ」
「私のお部屋です。夜、外から、鍵をかけられますか」
執務室の空気が、ぴんと張りつめた。
公爵様は、しばらく、何も言わなかった。
それから、引き出しを開けて、小さな鉄の鍵を取り出した。
私の手のひらに、それをのせる。
「君の部屋の鍵だ。これ一本しかない。内側からかけるものだ」
「……内側から?」
「外からかける鍵など、この城にはない」
公爵様の声は、さっきよりも、ずっと低かった。
怒っているように聞こえた。でも、何に怒っているのかは、わからなかった。
◇
案内された部屋は、広かった。
大きな窓。暖炉。ふかふかのベッド。
窓の外には、雪をかぶった山と、星空が、どこまでも広がっていた。
格子は、どこにもなかった。
私は、手のひらの鍵を、じっと見つめた。
内側からかける鍵。
自分で、閉めて、自分で、開けられる鍵。
その夜、私は、鍵をかけずに眠った。
窓のカーテンも、開けたまま。
星が、こんなにたくさんあることを、私は、十年ぶりに思い出した。
「愛するつもりはない」と言われても、泣き方を忘れてしまった花嫁でした。
次回、凍った中庭の、がれきの山で。
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