第16話 はじめての夜
【第一部のあらすじ】
「泥の手」と呼ばれ、十年間、地下室で土をつくらされてきたリーゼは、妹の身代わりとして、北の「氷の公爵」クラウスに嫁いだ。
がれきを肥沃な土に変えるリーゼの手と、クラウスの氷の手で、凍った北の地はよみがえり、実家のうそはあばかれた。
契約の一年が終わる夜、クラウスはリーゼに求婚し、二人は、本当の夫婦になった。
今回から、第二部です。結婚式から、二か月後の夏のお話です。
結婚式から、二か月がたった。
北の夏は、短い。
でも、そのあいだだけ、渡し場の村の畑は、目がさめるような緑になる。
カブの葉。豆のつる。風にゆれる、麦の穂。
一年半前まで、がれきの山だった場所だ。
◇
その夜、私は、自分の部屋の前で、枕をかかえて立っていた。
「奥様、がんばってください!」
廊下のかどから、アンナが、こぶしをにぎって、小声で言った。
「……アンナ。がんばるようなことじゃ、ないと思うの」
「がんばることです! だって、今夜から、旦那様のお部屋なんですよ!」
そうなのだ。
結婚式のあとも、私たちは、別々の部屋で眠っていた。
私は、もとの客間で。クラウス様は、あの、氷の部屋で。
理由は、わかっている。
――眠っているあいだの氷は、そばにいる者を、殺してしまう。
契約の一年が終わる前の夜、クラウス様は、そう言った。
八年前、毛布を持って部屋に入った、十二歳の見習いの侍従が、扉の前で凍った。
今の厩番の、トマさんだ。両足の指を、なくした。
雪月草のお茶を飲むようになってから、クラウス様の氷は、夜にあふれなくなった。
もう、何か月も、一度も。
それでも、クラウス様は、私を、自分の部屋に入れなかった。
だから、今日の昼、私のほうから言ったのだ。
「今夜から、そちらで眠ります。お茶も、そちらで淹れます」
クラウス様は、長いこと黙っていた。
それから、「……わかった」とだけ言った。
◇
氷の部屋は、もう、氷の部屋ではなかった。
壁の氷は、とかされて、石の壁に戻っていた。
床には、厚い毛皮の敷物。
窓辺には、雪月草の鉢。
部屋のまんなかに、大きな寝台が一つ。
クラウス様は、その寝台の、いちばんはしに、こしかけていた。
背中が、板みたいに、まっすぐだった。
「……来たのか」
「来ました」
私は、寝台の反対側のはしに、枕を置いた。
それから、持ってきたポットで、お茶を淹れた。
カモミールと、レモンバームと、雪月草をひとつまみ。
クラウス様は、カップを受け取って、ゆっくり飲んだ。
それから、言った。
「リーゼ。今夜は、俺は起きている」
「え?」
「眠らなければ、氷は出ない。君が眠ったら、俺は、椅子に移る」
私は、カップを置いた。
「クラウス様。もう何か月も、あふれていないんですよね」
「ああ」
「なら」
「何か月あふれなくても、今夜、あふれるかもしれない」
クラウス様は、自分の手を見下ろした。
「トマのときも、その前の何か月かは、あふれていなかった」
私は、何も言えなくなった。
この人は、こわいのだ。
自分の眠りが。
眠っているあいだに、自分の知らないところで、誰かを凍らせてしまうことが。
八年間、ずっと。
◇
私は、寝台の上を、ひざで進んだ。
クラウス様の横まで行って、その右手を、両手で取った。
「……リーゼ」
「凍ってもかまわない、って、あの回廊で言いました」
「あれは」
「今も、同じです」
クラウス様の手は、ひんやりとしていた。
でも、霜は、降りなかった。
「それに、もし、夜中に手が冷たくなったら、私、すぐに起きます。地下室で十年、毎朝、日の出前に起きていたんです。目をさますのは、得意なんです」
クラウス様が、少しだけ、目を見開いた。
「だから、先に、私が眠ってみせます。クラウス様は、私の寝息を聞いていてください。私が、朝まで、ちゃんと息をしていたら、明日の夜は、クラウス様が先に眠る番です」
「……そんな決め方があるか」
「あります。今、決めました」
私は、クラウス様の手をにぎったまま、横になった。
目を閉じる。
しばらくして、となりで、寝台が、ぎしりと沈んだ。
クラウス様が、横になったのだ。
私の手を、はなさないまま。
◇
目をさましたとき、窓の外が、白んでいた。
手は、まだ、つながっていた。
あたたかかった。
となりを見ると、クラウス様が、目を閉じていた。
規則正しい、静かな寝息。
眉間のしわが、消えていた。
――眠ってる。
はじめて、厨房の丸椅子で眠ったあの夜と、同じ寝顔だった。
でも、今は、寝台の上で、私の手をにぎったまま。
私は、もう一度、目を閉じた。
明日の夜の約束は、もう、守られてしまったみたいだった。
◇
朝、部屋を出ると、廊下のかどに、アンナがいた。
たぶん、ずっと、そこで待っていたのだと思う。
「奥様! ど、どうでしたか!」
「どうって……眠ったわ。ふつうに」
「ふつうに!」
アンナは、なぜか、両手で顔をおおった。
「旦那様は?」
「まだ、眠ってる」
アンナが、ぴたりと止まった。
それから、そっと、手を下ろした。
「……旦那様が、朝まで、お部屋で」
アンナの目に、みるみる、涙がたまっていった。
アンナは、私よりずっと前から、この城にいる。
八年間、旦那様の部屋の扉の前を、毎朝、足音を立てないように通ってきた人だ。
「よかった。よかったです、奥様」
アンナは、私の手を、ぎゅっとにぎった。
その日、旦那様が起きてきたのは、朝ごはんの時間を、ずいぶん過ぎてからだった。
料理長は、何も言わずに、スープを、もう一度、あたためなおした。
◇
その日の昼前。
城の倉の前で、ハンスさんが、帳面を広げていた。
「奥様。秋の買いつけの話でございます」
北の冬は、峠の道が雪にうもれる。荷車は、ほとんど通れない。
だから、秋のうちに、冬のあいだの麦と、塩と、油を、まとめて南から買っておく。
それが、北の、昔からのやり方だった。
「今年は、渡し場の村の畑がございます。麦も、カブも、豆も、とれました。南から買う分を、半分にできます」
ハンスさんの声は、少しだけ、はずんでいた。
「半分……」
「はい。先々代様のころから、北の家々は、秋の買いつけのために、借金をしてまいりました。それが、今年は、半分で」
私は、胸の奥が、あたたかくなった。
がれきの山だった村の畑が、北の借金を、半分にする。
そのとき。
城門のほうから、馬のひづめの音がした。
早馬だった。
南の、ブラント商会のしるしをつけた。
ハンスさんが、手紙を受け取って、封を切った。
読み進めるうちに、ハンスさんの顔から、色がひいていった。
「……ハンスさん?」
「奥様」
ハンスさんは、手紙を、私に見せた。
『北の公爵領への、麦・塩・油の売り値を、今年より、改めます。
麦は、去年の三倍。塩と油は、二倍とさせていただきます。
ブラント商会』
第二部、はじまりました。
夫婦になって、はじめての夜。そして、南から届いた、一通の手紙。
次回、「三倍の値」。
☆何個でもいいので、つけてください!




