第七章 黒田卿、再来
人間は、嫌いだった相手の香水を、十年たっても忘れない。
俺は、王宮の長い廊下の角で、固まっていた。
商人会から戻り、王女への報告のため執務室へ向かう途中だった。
角の向こうから、あの匂いが、まっすぐに飛んできた。
ローズと白檀。
量を間違えて吹きつけた、汗のような甘さ。
角を曲がってきたのは、黒衣の長身だった。
艶のある黒髪を後ろで一つに結んでいる。仕立てのいいベストの胸元には、見たことのない貴族の徽章。
顔には、細い銀縁の眼鏡。
眼鏡の奥の目が、俺を捉えた。
「やあ」
声が、変わっていなかった。
十年前の本部の朝礼で、俺の評価表に毎月赤い字を書き込んだ男の声。
黒田仁。
いや、こちら側の名前は、クロダ・ジン経営顧問卿だった。
「タドコロ君」
「……お久しぶりです」
「久しぶりだね。三年ぶりかな」
「十年です」
「ああ、こちらでは三年なんだ」
黒田は、薄く笑った。
俺は両手をエプロンの紐に掛け、握り直した。
黒田の目線が、俺のエプロンを上から下まで眺めた。
最後に、長靴の先で止まった。
「君、相変わらずだね」
「はい」
「そうやって、現場の格好で、現場の数字を、現場の頭で数えている」
「はい」
「君の良いところだよ。誰にも真似できない」
褒め言葉のはずだった。
でも、俺の背中には、十年前と同じ汗が浮かんでいた。
黒田の褒め言葉は、いつも、そのあとで重い荷物を背負わせるための前置きだった。
「ところで聞いた。城の食材庫で、面白いことをしたそうじゃないか」
「数えただけです」
「数えるのが趣味だものね、君は」
「はい」
「老兵を巻き込んで、勝手に倉庫に入って、無断で帳面を持ち出した、と聞いている」
「許可は、もらっていません」
「真面目だね。素直に答える」
「はい」
黒田は、にっこりと笑った。
その笑いは、目元に届いていなかった。
彼は俺の肩に、軽く、手を置いた。
俺はそれを払いのけることができなかった。十年前から、できなかった。
「タドコロ君」
「はい」
「君のような人間は、現場でこそ輝く。中央で立ち回るのは向かない」
「そう、ですか」
「だから、忠告だ。城の補給管理なんて、やめておきなさい」
「殿下のお声がかりなので」
「殿下は、まだ若い」
「はい」
「君のような者を抱えるリスクを、わかっていらっしゃらない」
黒田は俺の肩を、軽く叩いた。
叩く強さは、十年前と全く同じだった。
俺は何も言えなかった。
ただ、エプロンの紐が、少しだけ汗ばんだ。
黒田は、すれちがいざまに、もう一言、囁いた。
「君のノート、楽しみにしているよ」
その声は、廊下の石壁に吸い込まれて消えた。
俺はそのまま、しばらく動けなかった。
長靴の底が、磨かれた大理石の上で、じっとりと汗をかいていた。
黒田の足音が完全に聞こえなくなってから、俺はようやくノートを開いた。
手が、わずかに、震えていた。
ペンを握り直すのに、時間がかかった。
〈黒田、本日付。声、十年前と変化なし。眼鏡、追加。手の置き方、変わらず〉
書きながら、俺は気づいた。
黒田は、こちらに来てから三年だと言った。
俺は、来てから一週間だ。
なのに、彼は俺を「久しぶり」と呼んだ。
彼は、俺がこの世界に呼ばれることを、知っていた。
いや、知っていただけじゃない。
たぶん、待っていた。
彼が王城で経営顧問卿として三年も権勢を築いていたのは、いつか俺が来たときに、ちゃんと潰せるように下準備をしておくためだった。
そう仮定すると、辻褄が合いすぎる程に、合った。
俺は、ノートの裏表紙に、こう書いた。
〈黒田、こちら側における仕込み期間、三年。先行〉
仕込み、という単語に、俺は手を止めた。
その単語は、いつも、自分が客に出すラーメンを思い浮かべながら書く言葉だった。
濃口醤油を一晩寝かせる。
鶏ガラを十二時間取る。
ネギを朝の四時から仕込む。
仕込みは、店の命だ。仕込みが終わっていれば、本番はただ盛るだけだ。
黒田は、三年仕込んでいる。
俺は、まだ何もしていない。
でも、俺には、八年分のノートがある。
俺は深く息を吐いて、執務室への扉を叩いた。
扉の向こうから、王女の声が聞こえた。
「入りなさい」
いつもより、声が固かった。
俺は扉を開けた。
王女は、机の前に立っていた。
机の上には、見覚えのない黒い封筒が一通、置かれていた。
封蝋の紋章は、たぶん、つい先ほど廊下で擦れ違った男のものだった。
「タドコロ。あなたに、極秘の任を与える」
「はい」
「魔王軍の侵攻が、想定より早まっている。来夏までに、王都包囲の可能性がある」
「はい」
「その前に、王国全土の食料備蓄を、ありのままに把握しておきたい」
「はい」
「あなたが、それを指揮しなさい」
王女の目に、覚悟があった。
俺は深く頭を下げた。
頭を上げたとき、王女の机の上の黒い封筒は、もう消えていた。
部屋を出るとき、俺は思わず、もう一度ノートに書いた。
〈殿下、黒い封筒、受領済み。中身、未読の可能性〉
書きながら、俺は知った。
仕込みは、もう、始まっている。




