第六章 商人会、震える
噂は、王都の地下水路よりも早く広がる。
翌週には、商人会の使者が、城の厨房までやってきていた。
俺はその日も白いエプロンに長靴という出で立ちで、見習いのヨハンと一緒に大鍋を磨いていた。
使者は革張りのブーツで床を踏み鳴らし、俺の前で立ち止まった。
「あなたが、数字を読む男か」
「皿洗い、です」
「では皿洗いの数字を読む男よ。商人会会長より、急ぎの招待だ」
使者が差し出した羊皮紙には、商人会の蝋印が押されていた。
俺はそれを受け取り、ヨハンに鍋を任せた。
ヨハンは「いってらっしゃい」と何度も繰り返した。
まるで、俺がもう戻ってこないことを心配しているような言い方だった。
商人会の館は、王都の中心部、橋を二つ渡った先にあった。
入口の柱に、各国の通貨の記号が彫り込まれている。
俺がエプロン姿で入ってきても、扉番は何も言わなかった。たぶん、もう話が通っていた。
応接間で待っていたのは、白髭を蓄えた小柄な老人だった。
商人会会長、コルネリウス。
彼は俺を見ると、立ち上がって深々と一礼した。
「こんな格好の若造に、頭を下げないでください」
「年上に敬意を払うのは、商売人の最低の掟だ」
「俺、年下です」
「齢ではない、信用度の話だ」
彼の言葉は、丁寧で、けれど、どこかぴりりと辛かった。
俺は彼の差し出した革張りの椅子に座り、エプロンの皺をもう一度伸ばした。
「単刀直入に頼みたい」
「はい」
「老舗食堂が、潰れる」
会長の指差した先に、一冊の分厚い帳簿が積み上げられていた。
帳簿の表紙には「銀杯亭」と金の箔押し。
王都で三代続く老舗の名前だった。
扱いは王城出入りの食堂よりも上、というほどではないにせよ、伝統だけは充分に古い店だ。
「先代亡き後、若い当主に代替わりした。仕入れ価格は変わらないのに、客単価は落ちている。原因がわからん。三カ月で潰れる」
俺はノートを開いた。
会長は、銀杯亭の三カ月分の売上、仕入、人件費、家賃の数字を読み上げてくれた。
俺は彼の言葉のリズムに合わせて、表を作っていった。
数字を、まずは月ごとに横に並べる。
次に、項目ごとに縦に並べる。
そして、売上に対する仕入の比率と、売上に対する人件費の比率を計算する。
二つを足すと、ある数字が出た。
「七十二、です」
「七十二?」
「売上に対する、食材費と人件費の比率の合計、です」
「……それは、いいのか、悪いのか」
「悪いです。普通の食堂で、五十五から六十が良し悪しの境目です」
会長の目が、ゆっくりと開いた。
「では、十二も超えていると」
「はい。利益が出る余地が、ほとんどないです」
「なぜそうなった」
「人件費の項目を、もう一度ご覧ください」
俺は、ある一行を指差した。
二カ月前から、突然増えた人件費の項目。
名目は「仕入係見習い、追加採用、四名」。
「先代の頃には、銀杯亭の仕入係は二名でした。それが、若い当主に代わった瞬間、六名に増えています」
「……四人増やしたのか」
「給金は、一人月二十シルバー。四人で八十シルバー。月の利益が、ほぼ消えます」
「なぜ気づかなかった」
「項目自体を増やしただけで、誰も比率では見ていなかったからです」
会長は、片手で口を覆った。
もう一方の手で、帳面を握り潰しそうな勢いで掴んだ。
「タドコロ殿、その四人は、誰の紹介だ」
「あなたのお仕事です」
「……だが、聞きたい。お前が知らないと言うなら、私は、誰に聞けばいい」
「銀杯亭の若主人に、優しく聞いてあげてください」
会長は、しばらく目を閉じた。
俺はノートを閉じて、会長の机の上に静かに置いた。
彼が頁をめくるのを、邪魔しないようにした。
「タドコロ殿」
「はい」
「これは……魔導書か」
「ノートです」
「数字の魔導書だ」
「いえ、ノートです」
「君の手の動きは、印刷機より早い」
会長の言葉に、俺は答えなかった。
代わりに、会長の筆記具入れに無造作に挿してあった鉛筆を、長さの順に並べ直した。
使い始めの新品、半分使ったもの、根本まで削ったもの。それぞれを別の容器に分けた。
会長は、それを黙って見ていた。
「君は、いつもそうやって、整理しているのか」
「習慣です」
「私の家のメイドより、整理が早い」
「メイドさんのほうが、たぶん丁寧です」
会長は、ようやく顔をほころばせた。
彼が初めて見せた、笑いに近い表情だった。
帰り際、商人会の玄関先で、俺は黒衣の馬車が一台、通りを横切るのを見た。
馬車の側面に紋章はなく、ただ、扉から漏れる香水の匂いだけが、俺の鼻をかすめた。
ローズと、汗止めの白檀が混ざった、十年前と同じ匂い。
俺は思わず立ち止まり、ノートを胸に押しつけた。
ノートの厚みが、なぜか、いつもより薄く感じられた。
馬車が角を曲がって消えてから、俺はようやく息を吐いた。
ノートに新しい一行を書きつける。
〈黒田、商人会前を通過。十四時三十二分〉
時刻のところで、俺は手を止めた。
あの男が異世界に来たのと、同じ秒数の遅れで、俺は数字を書いていた。
偶然のはずだった。
でも、八年やってきて、偶然が偶然のままで終わったことは、一度もなかった。
城に戻る道すがら、俺はずっと、ノートを胸に押し当てていた。
革表紙の冷たさが、エプロンを通して伝わってきた。
その冷たさが、なぜか、心臓のあたりを少しだけ落ち着かせてくれた。




