第三章 皿洗いから始める
厨房に連れてこられた俺を、最初に出迎えたのは、皿の山だった。
高さで言えば、俺の身長の倍ほど。
脂のついたソース皿、骨つきの肉皿、葡萄酒のグラス。それらが、流しの前に積み上げられている。
厨房の床は油で滑り、空気はこびりついた焦げの匂いで濁っていた。
俺は寸胴を一旦床に置き、ノートを腰の後ろに挟んだ。
長靴の紐を結び直し、エプロンの皺を伸ばした。
脱いでもいいエプロンだったが、脱がない。脱いだら負けな気がした。
「おい、お前」
声をかけてきたのは、太った中年男だった。
白いコック帽が脂で黄ばんでいる。胸元のバッジには、料理長を示す金の縁取り。
「グスタフだ。ここの料理長、わかったか、新入り」
「はい」
「殿下からは、お前を皿洗いとして使えと言われている。だが私は人手不足だ。気が向いたら、芋の皮も剥かせる」
「わかりました」
「返事だけは早いな。さっさとやれ」
グスタフは口元を歪めた。
俺の長靴と、寸胴と、ノートを順に見て、最後に鼻で笑った。
俺は黙って流しの前に立った。
まず、何から始めるべきか。
皿の山を片づける前に、俺は厨房全体を見渡した。
動線が、めちゃくちゃだった。
肉切り台と魚切り台が同じ位置にある。野菜の下処理場が冷蔵庫の前を塞いでいる。包丁置き場とまな板置き場の高さが合っていない。
これじゃ事故が起きるし、起きていないのが奇跡だった。
俺はまず、洗い場の水を一度全部止めた。
「おい、なに止めてんだ」
グスタフが振り返った。
俺は答えずに、流しの蛇口を、片方だけ捻り直した。
水流が変わると、皿に当たる角度も変わる。脂は重力に従って落ちる。落ちた先に排水口がある位置が、正解の位置だ。
次に、まな板を四枚並べ替えた。
肉用、魚用、野菜用、果物用。
厨房に色付きの布があったから、それぞれの台に縛りつけた。赤、青、緑、黄。
誰がどの台で何を切るか、見れば分かるようになる。
「お前、何してる」
「すみません、邪魔ですか」
「邪魔だ、勝手なことを」
「やめます」
俺は手を止めて、流しの前に戻った。
皿を一枚ずつ取り、油を落とし、湯で流し、布巾で拭き、棚に戻す。
それを、ただ繰り返した。
四時間後。
皿の山は、消えていた。
厨房の床は、まだ油で滑った。
でも、洗い場の周りだけは、乾いていた。
見習いの少年が、俺のそばに来た。
まだ十四、五歳といったところか。手の甲に、新しい火傷の跡があった。
「あの、すごい速さで……」
「いえ」
「ちゃんと夕食までに片付くなんて、初めてです」
「そうですか」
「あの、お名前を」
「田所」
「タドコロさん。あの、見ててもいいですか。次の仕込み」
「どうぞ」
少年が頷いて、俺の隣に立った。
名前を聞いてから、ようやく緊張がほどけたらしい。彼は深く息を吐いて、肩の力を抜いた。
「俺、ヨハン、と言います」
「はい、ヨハン君」
「あの、毎日、夜中まで終わらなくて。料理長に怒鳴られて、それで」
「そうですか」
「今日、一日が、すごく早く、終わりました」
ヨハンの声は、震えていた。
俺は、何と答えていいか分からなかった。
代わりに、ノートに小さく書いた。
〈ヨハン、十四歳前後。手の甲、火傷三箇所〉
書きながら、グスタフがこちらを睨んでいるのを感じた。
料理長は、俺の足元を見ていた。
俺の長靴の周りに、洗い場で落ちた油がひとつもなかったからだ。
「お前」
「はい」
「明日も、来い」
「はい」
グスタフはそれだけ言って、エプロンを脱いで、奥の控え室に消えた。
彼の脱ぎ捨てたエプロンの内側に、肉の小片が落ちていたのを、俺は見た。
それは、今夜の出荷簿には載っていなかったはずの、量の肉だった。
俺はノートに、新しい行を書いた。
〈グスタフ料理長、本日の食材庫の出入り、要確認〉
夜が、明るくなっていた。
厨房の窓から、紫色の朝焼けが差し込んでいた。
俺は、寸胴を抱え直して、寝床へ歩き出した。
寝床は、まだ与えられていなかった。
ヨハンが、自分の藁布団の半分をそっと譲ってくれた。
半分というのは、ちょうど鶏ガラ半個分の譲りに思えて、俺はノートに、その単位で記録した。




