第二章 期待外れの勇者
「勇者ではないな」
女の声が、短く言った。
俺は、まだ右手にお玉を握っていた。
左腕には、八冊目のノートを抱えたまま。
長靴の底は、じっとりと湿っていた。さっきまで足元にあった厨房のタイルの水気が、まだそこにあった。
でも、目の前の景色は、もう厨房ではなかった。
高い、高い天井。
ステンドグラスから差し込む、紫色の光。
磨かれた大理石の床に、自分の長靴の輪郭が映っていた。
大理石の床の中央に、寸胴鍋とまったく同じ紋様が描かれていた。
俺は、その円の中心に立っていた。
円の周囲には、十数人の男女が並んでいる。みなローブを着ていて、こちらを凝視していた。
最前列に、銀の髪の女性が立っていた。年は二十代の半ばといったところか。歳のわりに、声に容赦がなかった。
「装備、職業、技能、生まれ。何ひとつ勇者にあてはまるものがない」
女性の指が、俺のエプロンの胸ポケットに刺さった爪楊枝を指していた。
爪楊枝。
たぶん、客に出す前に取って置いた予備だ。
俺は無言でそれを抜いて、ノートに挟んだ。
「お、おそらくは魔導陣の干渉でしょう。隣国の妨害が……」
「言い訳はいい。返せるのか」
「召喚は、一度きりです」
「なら、置く場所を考えなさい」
女性が背を向けた。
ローブの裾が、波のように広がった。
その後ろから、灰色の髭を蓄えた老人が一歩前に出る。
「失礼ながら、お名前を」
「……田所、健太です」
「タドコロ、ケンタ」
老人がゆっくりと頷いた。
俺は次に何を言えばいいか分からなくて、とりあえず一礼した。
「あの、お湯、戻していいですか」
「は」
「鍋。戻したいんですが」
俺が抱えている寸胴の蓋を指すと、老人の眉が片方だけ上がった。
部屋全体の空気が、ぴしりと止まった。
女性が、ゆっくりと振り返った。
目元に、明らかな苛立ちがあった。
俺は、それでも、もう一度頭を下げた。
「すみません、ガスの火を消し忘れたかもしれなくて」
ガスは、ないのかもしれない。
でも、火を消し忘れた可能性を、確認しないまま放置するのは、八年やってきた癖で許せなかった。
女性は、ふっと小さく笑った。
笑いというよりは、息を吐いただけのような音だった。
「厨房送りだ」
女性が短く言った。
ローブの男たちが、互いに顔を見合わせる。
「殿下、しかし召喚された者を一介の」
「使いみちのない者を、王家の客人扱いにする余裕はない。皿でも洗わせておけ」
殿下、と呼ばれた。
たぶん、王女様か、それに準ずる人なのだろう。
俺は、二度目の一礼をした。
「あ、それは助かります」
部屋の温度が、もう一度ぴしりと落ちた。
老人が、ぴくりと眉を上げた。
「助かる、と」
「皿洗い、得意なんで」
老人と王女と、ローブの一団が、声もなく俺を見つめた。
どこか、後ろのほうから、誰かの忍び笑いが聞こえた。
その笑いは、しかしすぐに止まった。
なぜなら、俺の足元の召喚陣が、まだ薄く光っていたからだ。
よく見れば、紋様の一部が、わずかにだが書き換わっている。
来たときとは違う、形。
老人の目が、それに気づいた。
ほかの誰も、気づかなかった。
「殿下」
「なに」
「この者の足元、術式が……いえ、後ほど」
王女は、もう一度こちらを見た。
その目に、ほんの少し、最初の苛立ちとは違うものが混ざっていた。
たぶん、不審ではなく、戸惑いだった。
「下がれ」
「はい」
「鍋は、置いていけ」
「あ、これは持って帰っていいですか」
「持って帰ってどうする」
「俺の鍋、なので」
王女は、もう答えなかった。
ローブの一団が、俺を扉の外へ追い立てた。
長い廊下を歩かされながら、俺はノートに小さく書いた。
〈到着、零時三分。鍋、持ち帰り許可〉
時刻は、本当は分からなかった。
でも、なんとなく、頭の中で時計が動いていた。
その時計だけは、八年前から壊れていなかった。
廊下の窓から見えた空に、太陽が二つ並んでいた。
俺は、その異常を、ノートには書かなかった。
書いてしまったら、自分が信じてしまいそうだったからだ。




