第一章 閉店間際の在庫差異
数えるのが、たまらなく好きだった。
数え終えたとき、世界はちゃんと辻褄が合っている。
そう信じていた。あの夜までは。
深夜零時。
シャッターを半分まで降ろしたラーメン店「麺屋たどころ」の厨房で、俺は八冊目になる棚卸ノートを開いた。
今日もきっちり数えてから帰る。
それが俺の仕事だ。たった一人の店長で、たった一人の従業員で、たった一人の経営者だから。
鶏ガラ、十二個納品。
ボウルに移し替えて、もう一度数える。
十一個半。
「……あれ」
半個。
半個ってなんだ。誰かが半分だけ持っていったとでもいうのか。
冷蔵庫の隅、まな板の裏、シンクの下まで覗き込んだが、欠けた半分はどこにもなかった。
俺はノートを開いて、数字の横に小さく書き加えた。
〈十一・五個。通算二十七回目の同種差異〉
そう。八年やってきて、二十七回目だった。
毎月一度か二度、同じ種類の差異が出る。半個。半玉。半切れ。誰も盗まないし、誰も気づかないし、誰も困らない。困っているのは俺だけだ。
俺はラーメンを作ることが好きで、店をやっている。
でもそれと同じくらい、いや本当はもう少しだけ、数えることが好きだった。
数えていれば、誰にも責められない。
数えていれば、自分が何かをやり遂げたと思える。
数えていれば、嫌な記憶が、すこし薄れる。
「健太、お前のは細かすぎるんだよ」
そう言ったのは、十年前の上司だった。
男の名は黒田。当時のエリアマネージャーだ。
俺がチェーンの本部勤めだったころ、黒田は俺の評価表に毎月赤い字を書き込んだ。協調性に欠ける、自分の数字に固執する、視野が狭い。
会議で発言しなかったというだけで人事考課を下げる人だった。一年後、俺は同期で唯一、昇格を見送られた。二年後、店舗を任されたが本部からの評価は最低だった。三年目、辞めた。
貯金で小さなラーメン店を出した。
誰の評価もいらない世界が欲しかったからだ。
でも、結局この街にも、追ってきた。
通りの向かい、四十メートル先。煌々と光るチェーン店の看板。系列は違うが、本部のシステムは黒田が立ち上げたと風の噂で聞いた。
あちらは深夜二時まで営業。こちらは零時で店じまい。客足は半分以下まで落ちた。
今日も最後の客が出ていったのは、二十二時すぎだった。
来月の家賃は、たぶん払えない。
郵便受けには、貸主からの三度目の催促状。
封を切らずに、いつものようにレジ横の段ボール箱に放り込んだ。
ノートに最後の一行を書く。
〈本日、平常〉
平常じゃないことには、気づいていた。
でも、書ける言葉はそれしかなかった。
怒りも悲しみも、八年もすればすり減って、こういう乾いた一行になる。
寸胴鍋の蓋を持ち上げる。
ガス台の火は落ちているのに、湯気はまだ細く立ち上っていた。
明日の仕込みのために残しておいたスープだ。
その湯気の奥に、見覚えのない紋様が、揺らめいて見えた。
目の錯覚だろう。
俺は一度瞬きをした。
もう一度、湯気の奥を覗き込む。
紋様は消えていなかった。
菊のようでもあり、八方に伸びた星のようでもある。
鍋の底から、ぼうっと光を放っている。
「……ガスの不完全燃焼か」
声に出してみたが、自分でも嘘だとわかった。
ガスは止まっている。火種はない。なのに鍋底は明らかに、内側から、青白く発光していた。
足元の床のタイルが、同じ色に染まりはじめた。
俺の長靴のまわりに、紋様が広がっていく。それは寸胴の底のものと、まったく同じ形だった。
ノートを胸に抱えて、後ずさろうとした。
でも、足が動かなかった。
タイルの紋様が、足の裏から脛、膝、腰へと這い上がってくるのが見えた。
寸胴の蓋が、ひとりでに、ことりと音を立てて落ちた。
最後に視界に入ったのは、レジの横の三度目の催促状と、八冊目のノートの余白だった。
余白には、まだ、何も書けていなかった。
光が膨らみ、店ごと俺を呑み込んだ。
遠くで、誰かが、長い長い詠唱をしているのが聞こえた気がした。
言葉は分からなかった。
ただ、何か、数字の話のような気がした。




