第二十章 帰還
帰還の魔法陣は、俺の店の床と、寸分違わなかった。
夏至から二週間後の朝。
俺は王宮の地下、最深部の魔法陣の前に立っていた。
陣を描いてくれたのは、アロイスの弟子にあたる若い魔導師だった。
アロイス自身は儀式の代償で魂の半分以上を消費し、儀のあと急速に衰えていた。
今朝、彼が亡くなったことを、出立直前に俺は知らされた。
代わりに、若い魔導師が俺の前に立った。
彼女はまだ二十歳にもならない、痩せた黒髪の女性だった。
名前を、エルフィンと言った。
「タドコロ様」
「様、はやめてください」
「タドコロ、さん」
「はい」
「アロイス先生からの伝言です」
「はい」
「『君の魂の半分は、私が預かる。次に来る時には必ず、揃えて返す』、と」
「……」
「先生は最後まで、笑っていらっしゃいました」
「……はい」
「その笑顔の意味は、私にはまだ分かりません。でもあなたには、分かるそうです」
俺はうつむいた。
一瞬、目から何かが落ちそうになった。
でも落とす前に、ノートに書いた。
〈アロイス先生、本日逝去。魂、半分、預かり中〉
書きながら、俺は笑顔の意味を、本当は分かっていた。
仕込みの済んだ料理は、食べる方の問題だ。
仕込んだ側は食べてもらえれば、満足する。
アロイスは最後まで、自分の役目を楽しんでいた。
だから笑っていた。
「エルフィンさん」
「はい」
「儀をお願いします」
「はい」
彼女は両手を組み、長い詠唱を始めた。
言葉は俺には、最後まで分からなかった。
ただ何度も、同じ単語が繰り返された。
たぶん「数」と「戻」と「結」を意味する単語だった。
魔法陣が青白く光り始めた。
俺の長靴の周りに、来た時と同じ、菊のような八方に伸びた星のような紋様が広がった。
俺は寸胴鍋を、両腕で抱え直した。
ノート八冊を、エプロンの紐で寸胴に縛りつけてあった。
胸ポケットには、ミラのコインと爪楊枝。
長靴の底には、王女の合鍵を革の中敷きの下に隠してあった。
光が膨らみ始めた。
最後に瞼の裏に、いくつかの顔が浮かんだ。
ヨハン。
商人会会長コルネリウス。
辺境伯シュトローム。
亡くなったアルベルト。
病床のアロイス。
謁見の間で深々と頭を下げてくれた王女。
白いワンピースのミラ。
全員、笑っていた。
全員、俺に半玉の客になっておくよう、笑っていた。
俺は頷いた。
誰にも見えない頷きだったが、確かに頷いた。
光が、はじけた。
次の瞬間、俺は寸胴鍋の前に立っていた。
厨房の見慣れた、真夜中の景色だった。
寸胴鍋から湯気が、まだ細く立ち上がっていた。
ガス台の火は、ちゃんと消えていた。
壁の時計は、零時三分を指していた。
召喚されたのは、零時のすこし前だった。
帰ってきたのは、その三分後。
あちらの三カ月は、こちらの三分。
俺は寸胴を、調理台にそっと置いた。
胸ポケットを探った。
爪楊枝が一本。
その隣に、銀のコインが一枚。
ちゃんと、あった。
長靴の底を剥がした。
革の中敷きの下に、銀の合鍵が刻印を見せて輝いていた。
ノート八冊は、寸胴の紐に結びつけられたまま横たわっていた。
ノートをひとつひとつ、調理台に並べた。
九冊目になる新しいノートを、レジ横の段ボール箱から取り出した。
箱の中の三度目の催促状の隣に、未開封の四度目の催促状が新たに増えていた。
俺はそれを見て、ふっと笑った。
たった三分しか経っていないのに、貸主はもう一通、催促状を投げ込んでいた。
厨房の窓から、外を覗いた。
通りの向かい、四十メートル先。
大手チェーン店の、煌々と光っていた看板が消えていた。
看板の下にシャッターが半分まで降りていた。
シャッターには薄い紙が一枚、貼られていた。
俺は店の扉を開けて、ゆっくりと通りまで出た。
夜風がエプロンの裾を揺らした。
チェーン店の前まで歩き、シャッターの紙を読んだ。
〈本部の不正会計発覚に伴い、本日付で当店は閉店となります〉
不正会計。
発覚。
日付は、今日。
俺はもう一度、ふっと笑った。
誰の手も借りずに、向こう側のロスはこちら側のロスと、同じ瞬間に自壊した。
それは復讐ではなかった。
俺はただ、数えただけだった。
数えると、こうなる、という、それだけのことだった。
俺は自分の店に戻った。
扉を閉めた。
寸胴鍋の前に戻った。
九冊目のノートを開いた。
最初の頁にこう書いた。
〈本日、平常〉
書いた瞬間、八冊目までの累計の差異が、ゼロになった気がした。
いや、気がしたのではなく、本当にゼロだった。
八年分の半個ずつの差異は、向こうで全部、本来あるべき場所に戻った。
俺の店にはもう、何も抜かれていなかった。
俺は寸胴鍋の蓋を、ことりと閉じた。
その音はいつもと同じだった。
でも今夜の俺の耳には、世界で一番まっとうな音に聞こえた。




