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赤字ラーメン店長、異世界で『棚卸の儀』を極めて魔王と元上司を屠り、元の店に凱旋する  作者: もしものべりすと


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第二十一章 終わりの光景

数えるのが、たまらなく好きだった。


 数え終えたとき、世界はちゃんと辻褄が合っているはずだから。


 そう信じている。今でも。


 翌朝。


 俺は開店の三時間前に、店に出ていた。


 九冊目のノートを開き、今日の在庫を数え始めた。


 鶏ガラ、十二個。納品済み。


 ボウルに移して、もう一度数える。


 十二個。


 差異、ゼロ。


 俺はその数字の隣に、小さく丸を打った。


 丸は〇個の差異の〇とは違う。


 俺だけのしるしだった。


 差異がない、ということを、俺だけがちゃんと祝うためのしるしだった。


 仕込みを始める。


 たまねぎ二十個を、薄く、薄く刻む。


 にんじん十五本を、桂剥きで皮を剥く。


 鶏ガラを、流水で丁寧に洗う。


 骨の中の血を、押し出す。


 そして寸胴に水を張り、火を入れる。


 火は安定して、青く燃えた。


 ガスの不完全燃焼ではない。


 もう寸胴の底に、紋様は現れなかった。


 現れる必要が、なかったからだ。


 昼の十一時、暖簾を出した。


 暖簾は八年前から使っているもので、端がすこしほつれていた。


 でも、まだ使えた。


 使えるものは、使い続ける。


 それが店主の、最低の作法だった。


 午前中の客は二人だった。


 近所の八百屋のおじさんと、向かいの花屋のおばさん。


 二人とも、いつも通りの醤油ラーメンを頼んだ。


 俺はいつも通りに運んだ。


 二人とも、いつも通りに最後の汁まで飲み干した。


 午後一時を過ぎた頃、新しい客が扉を押した。


 若い、痩せた女性だった。


 歳は、二十代半ば。


 黒い髪を、後ろでひとつにまとめていた。


 彼女は入口で、一度ためらった。


 ためらいながら、左手で自分の財布を握り直した。


「すみません」


「はい、いらっしゃいませ」


「あの、私、最近あんまり食欲がなくて」


「はい」


「ラーメン、半玉だけにできますか」


「もちろんです」


「半玉、メニューにありますか」


「メニューには、まだ書いてないんですけど」


「あ、すみません」


「いえ、書きます。今から書きます」


 俺はメニュー表の余白に、新しい一行を書き加えた。


 〈半玉ラーメン、五百円〉


 書き終えてから、俺は彼女のために半玉のラーメンを作り始めた。


 麺は、半玉。


 チャーシューは、一枚。


 ネギはいつもの量の、半分。


 メンマはいつもの量の、半分。


 卵は、半分。


 スープはいつもの量。スープだけは減らさなかった。


 半玉でも湯気は、ちゃんと立てたかった。


 ラーメンを彼女の前に置いた。


 彼女はためらいながら、箸を取った。


 ためらいの後で、彼女は麺をすこしすすった。


 そして目を、すこし見開いた。


「美味しい」


「ありがとうございます」


「半玉でも、ちゃんとラーメンですね」


「はい」


「私、最近、何を食べても味、しなかったんですけど」


「はい」


「これは、ちゃんと味します」


「はい」


「半玉でお腹、いっぱいになりそうです」


「はい」


 彼女は半玉を、ゆっくり、ゆっくりと食べた。


 俺はその間、別の客はいなかったので、レジの横でノートをもう一頁、開いていた。


 彼女が財布を開いた時、俺はふと、彼女の財布の中を見てしまった。


 他意はない。


 ただ視線が自然に、そこに向かった。


 財布の中の小銭入れ。


 その小銭入れの底に、銀色の平たいコインが一枚、見えた。


 コインの表に、見覚えのある紋章が彫られていた。


 俺はエプロンの胸ポケットの自分のコインを、無意識に握った。


 二つのコインはたぶん、同じ意匠だった。


 俺は彼女に何も言わなかった。


 彼女はもちろん、自分が持っているコインの意味を知らなかった。


 知らなくていい。


 知らなくても、彼女は俺の店に来た。


 彼女はお代を、五百円玉ひとつで払った。


 お釣りはなかった。


 俺はお代を、レジにしまった。


「ごちそうさま、でした」


「ありがとうございました」


「あの」


「はい」


「また、来てもいいですか」


「もちろんです」


「半玉でも」


「半玉で、いいです」


「ありがとうございます」


 彼女は扉を押した。


 外は晴れていた。


 昼の光が、彼女の黒髪をふわりと揺らした。


 彼女は振り返らなかった。


 俺も振り返らせなかった。


 扉が、閉まった。


 俺はレジの横の、九冊目のノートを開いた。


 今日の最後の一行を書いた。


 〈客一名、半玉提供。受け入れ完了〉


 書きながら、俺は八冊目までの最後の余白に、まだ書きそびれていたある一行を思い出した。


 俺は八冊目のノートをもう一度、開いた。


 最後の頁の空白の部分に、ペンを置いた。


 昨日、向こう側で書こうとして書けなかった、その一行を、今ようやく書く。


 〈仕込みは、裏切らない〉


 書き終えると、俺はノートをぱたんと閉じた。


 寸胴鍋の蓋をもう一度、ことりと閉じた。


 その音は八年前から、何ひとつ変わっていなかった。


 でもその音を聞いている俺自身は、もう八年前の俺ではなかった。


 夕方、もう一度暖簾の前に立つ。


 通りの向かい、四十メートル先。


 看板の消えたチェーン店の跡地に、新しい工事の幕が張られていた。


 幕には何も書かれていなかった。


 次に何が建つかは、まだ分からない。


 分からないが、何が建っても俺の店はちゃんと、ここにあった。


 俺は暖簾の右下の端に、手で軽く触れた。


 触れた感触は八年前から何も変わらず、すこしほつれていた。


 でも、まだ使えた。


 夕陽がシャッターの隙間から差し込んだ。


 夕陽は寸胴鍋の蓋にあたって、光った。


 光はガス台の上から、ノートの背表紙の上を通って、レジの横の催促状の山にまで伸びていた。


 俺はその光の道筋を、九冊目のノートにこう書きとめた。


 〈本日、平常。 そして、誰かが半玉、食べに来た〉


 書いた。


 書いた瞬間、世界はちゃんと辻褄が合った。


 暖簾を半分、下ろし始めた。


 明日の仕込みのために、また寸胴の火を絞る。


 仕込みは今夜のうちに、八割を済ませる。


 残りの二割は、明日の朝、客の顔を見てから決める。


 それが俺のやり方だった。


 八年やってきた、そしてこれからも続く、俺のただの日常だった。

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