第十九章 別れ
世界を救った男に王国が用意したのは、爵位と領地と姫の手だった。
そして俺は、そのすべてを断った。
帰還の儀の前夜。
王女はもう一度、俺を呼び出した。
今度は執務室ではなく、謁見の間だった。
謁見の間には、王女と宰相と、貴族会議の主要な顔ぶれが揃っていた。
壇上で王女は、俺に向かって声を張った。
「タドコロ・ケンタ」
「はい」
「王国は、お前に公爵位を授ける」
「……」
「領地は、北方の三領を含む王国第二位の規模となる」
「……」
「そして、私と結婚してほしい」
謁見の間が静まり返った。
貴族たちは誰も不平を漏らさなかった。
彼らはもう、俺の数字に生かされていることを知っていた。
俺は深く頭を下げた。
頭を下げたまま、口を開いた。
「殿下」
「うむ」
「ありがたくお受けしたい、と言いたいところですが」
「うむ」
「俺、ラーメン屋なので」
「……知っている」
「店、放りっぱなしです」
「分かっている」
「家賃、三カ月分滞納してます」
「……」
「お受けしたら、店、潰れます」
「タドコロ」
「はい」
「お前、本当にラーメン屋だな」
「はい」
王女は、声を立てて笑った。
声を立てて笑うのは、彼女が俺と会ってから初めてだった。
貴族たちが戸惑いながらも、つられて笑った。
謁見の間に初めて、温かい音が響いた。
「分かった、タドコロ」
「はい」
「すべての贈り物は辞退と、受け取る」
「すみません」
「ただし一つだけ、譲れぬ条件がある」
「はい」
「お前の店の名で、王宮料理長の称号を、永代お前に贈る」
「……それは」
「拒否権は認めない」
「分かりました」
俺は深く頭を下げた。
受け取らないわけにはいかなかった。
受け取らないのは、王女の最後の意地に報いない、ということだった。
謁見が終わると、貴族たちはそれぞれの最後の挨拶を、俺に向けて述べた。
商人会会長コルネリウスは、金細工の小さな算盤を餞別にくれた。
「君の二代目のノートに、ふさわしい道具だ」
辺境伯シュトロームは、革の手袋を餞別にくれた。
「皿洗いの手を、守れ」
アロイスは、自分の杖の先に結び目を一つ作って、俺に渡した。
「魂の半分は、これで結んでおく。いつか戻ってこられる」
ヨハンは最後まで、何も言わなかった。
彼は自分の手書きのレシピ帳を、俺の手に押しつけた。
「俺、料理長代理続けます」
「うん」
「タドコロさん、客で戻ってきてください」
「うん」
「半玉でも、俺、出します」
「うん」
ヨハンは頷いて、走り去った。
彼の背中はヨハンの背中ではあったけれど、彼が出会った頃の十四歳の彼の背中ではなかった。
俺はその背中を、長く見送った。
その夜。
俺は王宮の自室を出て、最後に王宮の中庭まで歩いた。
中庭にはミラが待っていた。
彼女はギルドの制服でも給仕の制服でもない、白いワンピースを着ていた。
月の光が、彼女の髪を銀色に染めていた。
「タドコロさん」
「ミラさん」
「明日、ですね」
「明日です」
「私は、見送らない方がいいですか」
「……」
「私が儀式の場にいると、たぶんあなたが迷うので」
「はい」
「だから、今夜が最後ですね」
「はい」
ミラは俺の前に、手のひらを差し出した。
手のひらの中には、銀の小さな平たいコインが一枚あった。
コインの表には、ギルドの紋章。裏には、ミラ・ヘルメスの名前と登録番号が刻んであった。
「これ、ギルドの登録証です」
「貴重な物ですよね」
「私の登録証なので、私個人の物です」
「いいんですか」
「はい」
「あなたの世界に、持って帰ってください」
「向こうではただのコインですけど」
「ええ、ただのコインに見えると思います」
「でも俺には、ミラさんの登録証として見えます」
「はい」
俺はコインを両手で受け取った。
コインは思っていたより、ずっと冷たかった。
俺はそれを、自分のエプロンの胸ポケットの爪楊枝の隣にしまった。
「ミラさん」
「はい」
「俺、戻ったらまた、店、開きます」
「ええ」
「半玉のラーメン、メニューに入れます」
「ええ」
「お年寄りも若い女の子も、半玉でも食べに来ていい店にします」
「ええ」
「だから、もし」
「もし?」
「もしいつか、コインを誰かが持ってきてくれたら、俺、その人に半玉、出します」
「……」
「それで、いいですよね」
「はい」
「いいです」
ミラはしばらく、俺の方を見ていた。
彼女の目は夜の中で潤んでいた。
でも彼女は泣かなかった。
代わりに彼女は、自分のノートを開いた。
彼女のノートは俺の真似をして、最近書き始めたものだった。
彼女はその夜の頁に、こう書いた。
〈二十時十四分、別離〉
俺も、自分のノートに同じ文字を書いた。
〈二十時十四分、別離〉
俺たちは手を握らなかった。
代わりにお互いの、ノートのその一行を、眼で何度も辿った。
月が雲の影に隠れた。
中庭の風が、白いワンピースの裾をゆっくりと揺らした。
「タドコロさん」
「はい」
「数えるのが好きで、よかったですね」
「はい」
「数えなかったら、ここまで来てません」
「はい」
「もう一度、数えに戻ってきていいですよ」
「……戻れたら、戻ります」
「はい」
ミラは最後に、ノートを閉じた。
俺も閉じた。
俺たちはそれぞれ、別の方角に踵を返した。
振り返らなかった。
振り返ったら、決めたことが戻せなくなる。
俺は王宮の自室まで歩いて戻り、寸胴鍋を抱え、ノートをまとめ、アロイスからもらった結び目の杖を握った。
長靴をもう一度、結び直した。
結び目がいつもより固かった。
固い結び目は、固い決意のしるしだった。
明日の朝、儀式の陣に入る。
半分の魂で、半分の意識で、向こうに戻る。
それは半玉のラーメンに似ていた。
半玉でも客にちゃんと出せる量、だった。




