第十六章 魔王、降臨す
ロス、と呼ばれていた。
廃棄ロス、機会ロス、棚卸ロス。
名前を変えながら、何千年も世界を食ってきたもの。
黒田が自分の胸に黒い棒を突き立てた瞬間、謁見の間の天井がぴしりと音を立てて割れた。
石の天井から、黒い砂のようなものがこぼれ落ちてきた。
黒田の胸から、同じ色の煙が噴き出した。
彼の身体が内側から膨らみ、形を歪めていった。
眼鏡が割れて、床に落ちた。
彼の顔はもう、人間のものではなくなっていた。
「タドコロ君」
黒田の声は、まだ残っていた。
声だけが肉の崩れた口から、奇妙にきれいに漏れてきた。
「君は、真面目すぎたね」
「……」
「人間はもう少し、ずるくていいんだよ」
「俺は、ずるいの苦手なので」
「知ってる」
黒田の体はぐにゃりと膨らんで、巨大な欠損だらけの巨人になった。
頭は二つあった。腕は四本あったが、左の二本は肘から先がなかった。
胸の真ん中に、ぽっかりと穴が開いていた。
穴の奥に、無数の半個に欠けた小さなものが詰まっていた。
それは鶏ガラの半分だったり、塩漬け肉の切れ端だったり、燻製の吊り紐だったりした。
俺が八年、店から消えていた半個ずつの集合体だった。
謁見の間に悲鳴が上がった。
貴族たちが扉に殺到した。
扉は外側から、シュトロームの私兵によって鍵が掛けられていた。
誰も出られなかった。
代わりに武装の兵たちが、剣を抜いた。
巨人はその剣に見向きもしなかった。
彼の目はただ、俺だけを見ていた。
「タドコロ君」
「はい」
「君のノートをよこしなさい」
「いえ」
「よこしてくれたら、君だけはこちら側に残してあげる」
「俺はこちら側に残るのが目的じゃ、ないので」
「では何が目的だ」
「数えるのが、目的です」
巨人の口がぱっくりと割れた。
笑い、だった。
それが笑いだと分かるまで、少しかかった。
俺は王女の方を向いた。
王女はもうノートを抱えてはいなかった。
ノートは長机の上に、並んだままだった。
彼女は玉座まで戻り、自分の傍らに置かれていた銀の杖を握った。
銀の杖の先には、王家の紋章が彫られていた。
「タドコロ。儀を始めなさい」
「殿下、危険です」
「私はすでに、客の側だ」
「……」
「店主の領分は、店主が決めなさい」
俺はノートを、長机の中央に並べ直した。
一冊目を北、二冊目を北東、三冊目を東、四冊目を南東、五冊目を南、六冊目を南西、七冊目を西、八冊目を北西。
八つの方角に、ノートを開いた頁を置いた。
それぞれの頁には、その方角の観測点の数字が書いてあった。
長机の真ん中に、俺は自分の店から持ってきた寸胴鍋をゆっくりと置いた。
寸胴鍋は八冊目のノートと一緒に、ヨハンがどこかから取り戻して保管してくれていた。
ノートと寸胴と、長靴とエプロン。
俺の店からこちらに渡ってきた、四つの「持ち物」がすべて揃った。
俺は寸胴の蓋を、ゆっくりと持ち上げた。
中には、何も入っていなかった。
ただ底の部分に、あの夜と同じ青白い紋様が、ぼうっと浮かんでいた。
俺は深く息を吸った。
「棚卸を、開始します」
声に出して言った。
言った瞬間、八つの方角のノートがそれぞれ、勝手に頁をめくり始めた。
外の観測点に置かれた、八つの鶏ガラに一斉に火が灯った。
城外で、ミラの伝令の合図が鐘の音となって響いた。
鐘はミラ本人が、ギルド本部の屋上で鳴らしていた。
鐘の音は王都の中心から、八つの方角へ波紋のように広がっていった。




