第十三章 失われた古代魔法
魔法とは、特別な才能の話ではなかった。
それを毎日続ける、退屈さの話だった。
馬小屋に身を潜めて十日ほど経った頃、隣領の老魔導師アロイスが、俺たちのもとを訪れた。
彼は元・王立魔導院の学長で、今は森の隠遁生活に入っていた七十代の老人だった。
白い髭が膝まで伸びて、黒檀の杖を引きずっていた。
ミラがひそかに、彼に文を出していた。
俺のノートの写しの一頁を添えて、「これを見ていただきたい」とだけ書いた。
アロイスはその一頁を見ただけで馬車を呼び、十日かけて隣領まで来てくれた。
馬小屋の二階に上がってくると、彼は腰を下ろす前に俺のノートを順番に開いた。
一冊目から、八冊目まで。
彼の指は節くれだっていたが、迷いがなかった。
四時間、彼は何も言わずに頁をめくり続けた。
俺とミラは彼の集中を切らさないように、別の頁を向こう側で並べてあげた。
日が沈みかけた頃、アロイスはようやく、深く息を吐いた。
彼の唇が、震えていた。
「タドコロ殿」
「はい」
「君は、千年前の人間か」
「……は」
「これは千年前に失伝した『棚卸の儀』の、生きた施術記録だ」
「俺はラーメン屋なんですが」
「分かっている。だがこれは、それだ」
アロイスはノートの一冊目の最初の頁を指差した。
そこには俺の店「麺屋たどころ」の開店前夜、十二月十四日の最初の在庫数が書かれていた。
たまねぎ、二十個。にんじん、十五本。鶏ガラ、二羽分。
「これは儀式の起動条件だ」
「……は」
「儀式の起動には、施術者が自分の責任範囲を、自分の手で最初に全部数えることが必要だ。それをこの『棚卸ノート』の最初の頁で、君はやっている」
「そうですか」
「次に毎月一度以上、責任範囲の全項目を、自分の手で再度数える」
「やってます」
「八年、続けたか」
「はい」
「中断、なし」
「無いです」
「君は今や、世界に二人と居ない儀式の現役施術者だ」
俺はノートを胸に抱えた。
ミラが俺の隣で、震える指で自分の口元を覆った。
「アロイス様」
「うむ」
「魔王とは、何ですか」
「魔王は、世界の在庫を盗み続ける者の総称だ」
「総称」
「魔王と呼ばれる存在は毎度、別人格として現れる。中身が違う。役割の名だ」
「中身が違う」
「現代の魔王は、まだ実体化していない。代わりにこちら側で、その『運び手』が十年ほど前から動いている」
「黒田、ですね」
「クロダ・ジン経営顧問卿の名で、王宮に潜り込んだ男。あれが運び手だ」
俺はノートに新しい一行を書こうとしたが、ペンが動かなかった。
代わりにノートに既に書かれていた「黒田、こちら側における仕込み期間、三年」という一行を、もう一度目で辿った。
彼の三年。
俺の八年。
仕込みの長さでは、俺の方が勝っていた。
「アロイス様」
「うむ」
「儀を発動する方法は」
「君のノート、八冊。それと君自身の身体。発動の場所は王都の中央、王宮の謁見の間。発動の時刻は太陽が二つ重なる、夏至の正午」
「夏至までに、何日ですか」
「九十日」
「……」
「準備が要る」
「分かりました」
「もう一つ、言わねばならぬことがある」
「はい」
「儀の発動は施術者の魂を、半分世界に返す」
「……魂を」
「君の生命の半分、と思ってもらっていい」
「死ぬ、ということですか」
「死なない。が、こちら側に留まれなくなる」
アロイスの声は、低かった。
ミラが俺の腕を、強く掴んだ。
彼女の指は、震えていた。
「タドコロさん」
「ミラさん」
「決めるのはあなたですけど」
「はい」
「あなた、自分の店、覚えてますか」
「覚えてます」
「客、覚えてますか」
「覚えてます」
「常連さんでラーメン半玉だけ食べに来る、お年寄り、いますよね」
「……はい」
「あの方、待ってますよ」
「……」
「それで、いいんですよ」
ミラの声は、震えていなかった。
彼女は覚悟を決めていた。
俺ではなく、自分の覚悟を決めてくれていた。
俺はノートを開いた。
最後の頁の空白に、こう書いた。
〈儀式、発動を決断。代償、こちら側退去。ミラ、了承〉
書きながら、俺は自分の手の震えを、半分くらい止めることができた。
半分だけ。
アロイスが俺の頭の上に、骨ばった手をそっと載せた。
「君のような者が最後の施術者で、よかった」
「いえ」
「君は誇っていい」
「俺は誇るのは、苦手で」
「知っている」
アロイスは声を立てて笑った。
その笑い声は、馬小屋の二階に長く長く響いた。




