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第3話 侵蝕の始まり

 ヌルの声は、その後も来た。


 毎日来るわけではなかった。二日空く時もあれば、四日来ない時もあった。透はそういう日を静かな日と呼んでいた。


 静かな日は、部屋が自分だけのものだと分かった。ベッドに寝転がって、天井を見て、声のない空間を確かめた。確かめることで、まだここは自分のものだと思えた。


 問題は、その確かめる行為が、少しずつ長くなっていたことだった。


 声は消えていない。どこかにある。在り処を探してしまう。探したくないのに、知らないと落ち着かない。


 おかしいと思った。思いながら、翌日も確かめた。


 五月の終わりから夢は続いていた。毎晩来た。高い場所と玉座と空白の顔。起きると充実感が残った。眠りが深く、体が軽かった。授業中に眠くならない日が増えた。由紀に顔色が良くなったと言われた。よく眠れているだけだと、透は思った。


---


 六月の最初の週、深夜に声が来た。


 透はスマートフォンでパズルゲームをしていた。青いブロックを三つ並べて消すだけのゲームだった。失敗しても、広告を見れば一手戻れる。もう二十分ほど、同じ画面を触っていた。楽しいわけではなかった。指だけが動いていた。


ヌル「昨日、お前は三限にいなかった」


 透はブロックを止めた。


ヌル「授業は止まらなかった」


透「うるさい」


 声は、その言葉を拾わなかった。


ヌル「誰も欠けたとは思わなかった」


 それきりだった。


 透は画面を閉じた。暗くなった。天井を見た。


 しばらくして、声が来た。


ヌル「取引だ」


ヌル「金。未来。心の輪郭」


 要らない、と思った。


ヌル「違う」


ヌル「席だ」


 透は息を止めた。


ヌル「お前だけの席は、人間の世界にはない」


 それきり来なかった。


 透は布団を頭まで引き上げた。暗くなった。眠れると思っていなかったが、眠れた。夢が来た。玉座と空白の顔と充実感。


 目が覚めると朝だった。充実感が残っていた。いつもより強かった。


---


 翌日、透は三限に出た。


 教室の後ろの席に座った。昨日と同じプリントが前から回ってきた。透の分も、机の端に一枚余っていた。


「一枚余ってる」


 前の席の誰かが言った。


 それだけだった。プリントは回収されて、余りは捨てられた。


 透はノートに日付を書いた。教授が話し始めた。授業はいつも通り続いていた。昨日透がいなくても、何も止まらなかった。今日透がいても、同じ速度で進んでいた。


ヌル「数えられていない」


 声は授業中に来た。一文だけ来て、消えた。


 透はノートに横線を引いた。引いて、次の行に目を移した。


 帰り道、改札に人が溜まっていた。部活帰りの学生のグループが笑いながら前を通り過ぎた。どこへ行くのか、何が楽しいのか、透には分からなかった。分かりたくもなかった。ただ、自分がその流れに入っていないことが、昨日より少し重かった。


---


 六月の二週目、圭と昼を食べた。


 食堂の端のテーブルだった。梅雨に入って窓の外が白かった。圭が先にいた。透が向かいに座ると、少し間を置いてから机を叩いた。とん、とん。


 以前より間が長かった。


圭「バイト、どうしようかな」


透「辞めるの」


圭「辞めようかとは思ってる。でも踏み切れなくて」


透「きついの」


圭「シフト、露骨に減っててさ」


透「店長?」


圭「うん。まあ、そう」


透「辞めれば」


圭「履歴書、空くじゃん。誰にも言えてないし」


 見えた、という感触があった。


 圭の言葉の奥に、引っかかっているものの輪郭があった。店長のこと。履歴書の空白。誰にも言えずに止まっている場所。透は、それを目で追っていた。


透「誰にも言えてないのが一番しんどいんじゃないか」


 圭が手を止めた。


 短い間があった。


圭「……お前、なんで分かんの」


透「え」


圭「言ったっけ、俺」


 透は考えた。言っていない。圭は「誰にも言えてないし」と言っただけだった。その一言から、なぜあそこまで見えたのか、透には説明できなかった。


透「……なんとなく、そう聞こえたから」


圭「なんとなく」


透「そういう感じがした」


 圭はしばらく透を見ていた。表情が読めなかった。透が知っているどの顔とも違った。


圭「そうだけど」


 短く言って、スマートフォンを手に取った。


 昼が終わった。圭は先に立った。透は一人で食堂を出た。


 廊下を歩きながら、何をしたのかを考えた。助けようとした。言い当てることで、圭が楽になると思った。それは本当だった。


 なのに圭は引いた。


 悪いことをしたのだと思った。でも、何が悪かったのかは分からなかった。


---


 その夜、家に帰ると、食卓にはもう夕食が並んでいた。


 透が席に着くと、由紀がご飯をよそった。茶碗を透の前に置き、それから、いつものように少しだけ手前へ寄せた。


 邪魔だ、と思った。


 箸を取ろうとした手が止まった。


 何度も見てきた動きだった。透が小さい頃から、由紀はそうしていた。茶碗の位置を直す。ただそれだけのことだった。


 それを、邪魔だと思った。


由紀「どうしたの」


透「なんでもない」


 透は箸を取った。味噌汁を飲んだ。味はした。おいしいとも思った。


 食事の間、由紀は商店街の話をした。透は相槌を打った。後片付けも手伝った。全部、いつも通りにできた。


 部屋に戻ってから、さっきの一瞬を思い出した。


 おかしかった。


 そう思えたから、まだ大丈夫だと思った。


 それ以上、考えなかった。


---


 六月の後半に入ってから、圭と話す回数が少し減った。


 圭が避けているわけではなかった。重なる授業では会ったし、昼も食べた。ただ、机を叩くまでに間があった。以前は何もない前置きで叩いていた。今は、何かを測ってから叩いているように見えた。


 透は、それを聞かなかった。聞けば、また何かを間違える気がした。


 夢は続いた。玉座が近くなっていた気がした。起きると充実感があった。朝だけだったものが昼まで続くようになった。昼を過ぎると薄れたが、翌朝また来た。それが繰り返された。


 ヌルの声が来た夜、透はもう「うるさい」と言わなかった。


 諦めたわけではなかった。ただ、声のない夜は、冷蔵庫の音や、遠くのバイクの音まで大きく聞こえた。声が来る夜は、その音が少し遠くなった。


 おかしいと思う感覚が、以前ほど速く来なかった。


 ある昼、食堂で圭がコンビニのパンの話をした。


圭「コンビニの新しいパン、食った?」


透「食ってない」


圭「黒糖のやつ。お前好きそう」


透「そう」


圭「反応うす」


 圭は笑った。透も笑った。


 食堂を出てから、何かが薄かったと思った。どこが薄かったのかは分からなかった。分からないことが、以前ほど気にならなかった。


---


 七月が近い、ある朝だった。


 透は目が覚めた。充実感があった。空が白み始めていた。


 布団の中で、圭のことを考えた。机を叩く前の間を考えた。食堂で引いた時の顔を考えた。


 輪郭が見えた、という感触を考えた。あれはどこから来たのか。透が知っているはずのない場所まで、なぜ届いていたのか。


 気づいたら、声に話しかけていた。


透「……扉って、何だ」


 間があった。


ヌル「遅い」

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