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第4話 扉の向こう

 ヌルが言った。


ヌル「縫い目だ」


 透は自分が声に出していたことに気づいた。布団の中で、天井に向かって、問いを発していた。自分では聞いたつもりがなかった。


透「何の」


 返事はなかった。


---


 翌朝、透はいつもより早く起きた。


 由紀はまだ寝ていた。透はキッチンで水を飲んだ。蛇口を締める手が、一拍遅れた。水の音が止まってから、手が離れた。


 透は右手を開いた。指は、命令を待つように止まっていた。


ヌル「今夜だ」


透「何が」


 答えなかった。


---


 その夜、透はアパートの机に向かっていた。


 ノートを開いていたが、何も書いていなかった。窓の外で風が鳴っていた。


 視界の端で、何かが揺れた。


 机の端と壁の境目。そこに、線があった。前からあった線ではなかった。厚みがあった。紙と紙を重ねたような段差が、昨日まではなかった。


ヌル「触れろ」


 透は椅子から立った。そこで止まった。


 戻れる保証はなかった。聞いても、ヌルは答えない。


 もうお前だけのものではない。


 雨の中で、白い手が看板を掴んだ。その直後の声が戻った。あの時は逃げた。今も逃げていいはずだった。


 昼に圭からメッセージが来ていた。


 「夕飯食った?」


 圭らしい、用件のない文だった。画面を見ているうちに、机を二回叩く音が浮かんだ。とん、とん。透は返信しなかった。


 由紀は夕方、部屋の外から声をかけた。


由紀「ご飯だよ」


 ドアの向こうに、味噌汁の匂いがあった。透は「後で」と返した。結局、食べなかった。


 裂け目を見た。見たくなかった。見た。


 後ろへ下がろうとした。足は下がらなかった。


 いつ手を伸ばしたのか、分からなかった。雨の日もそうだった。先に動いたのは、いつも手だった。


 指先が縫い目に触れていた。冷たかった。厚みがあった。少し引いた。


 空間に、裂け目が開いた。


---


 音がなかった。光もなかった。


 ただ、部屋の向こうに、もう一つの部屋が重なった。透の部屋と同じ形をしているのに、透の部屋ではないものだった。


 透は一歩踏み出した。自分で踏み出したのかどうかが、分からなかった。


---


 足の裏に、床の感触はあった。


 けれど、部屋は透の部屋ではなかった。


 机は同じ場所にあった。ノートも、椅子も、壁に貼ったカレンダーもあった。見覚えのあるものばかりだった。


 ただ、全部が少しずつ接がれていなかった。


 机の脚と床の間に、影がなかった。窓枠と夜の境目が黒くにじんでいた。壁紙の角は角ではなく、濡れた紙のように床へ垂れていた。床板と床板の継ぎ目が、息をするように開いたり閉じたりしていた。その隙間には底がなかった。


 自分の部屋が、ばらばらの絵の部品になっていた。


 走っていた頃、透は足裏の感覚だけは信じていた。地面を蹴れたか。蹴れなかったか。それだけで、その日の体が分かった。


 なのに今、地面が返事をしなかった。踏んでいるのに、支えられていない。立っているはずなのに、膝の奥だけがずっと落ち続けていた。


 透は裂け目を探した。後ろを向いた。


 裂け目は、なかった。


透「出してくれ」


 声は出た。でも、届かなかった。壁にも、床にも、自分の耳にも。言葉だけが途中で細くなり、消えた。


ヌル「……」


 透は壁に手をついた。冷たかった。手が沈みかけた。押し返された。沈みかけた感触だけが残った。


---


 壁と床の境目に、額縁が掛かっていた。


 金色だった。


 古い洋館にありそうな、花と蔦の彫刻が絡みついた、場違いなほど豪華な額縁だった。縦三十センチほど。横は四十センチ。壁と床の境目に斜めに刺さるように、ただそこにあった。


 中には何も描かれていなかった。絵ではない。鏡でもない。ただ、黒い空洞があった。


 額縁の内側に入った壁と床の境目だけが、消えていた。壁が床に混ざり、床が壁に混ざっていた。


 透は正面から見た。


 額縁は、壁に掛かった古い飾りにしか見えなかった。


 視線を外した。


 足元で、金の彫刻がきしんだ。


 近づいていた。


 透が後退した瞬間、額縁が壁を滑った。床との境目に沿って、音もなく移動した。壁と床の接続部を囲むように動き、囲った部分から線が消えた。囲われた場所の壁が床に溶け、床が壁に溶けた。


 透は正面から見た。


 額縁は、さっきと同じ場所に戻っていた。


 視線を外した瞬間、足元で金の彫刻がまたきしんだ。


透「来るな」


 声は消えた。


---


 透は走った。


 ドアへ向かった。


 ドアはあった。ノブへ手を伸ばした。


 そこにあるはずの金属に、指が触れなかった。


 ノブだけが、ドア横の額縁の中に収まっていた。外側から見ると、ドアの面とドアノブの間に継ぎ目がない。ノブだけが半分ほど薄く、手が触れているのに握れなかった。


透「なんだ、これ」


 声は消えた。


 透は机に向かって走った。机の端と壁の間から外へ出ようとした。机を引いた。


 上半分だけが動いた。脚の下半分は、額縁の黒い内側に残っていた。机が前に傾いた。ノートとペンケースが落ちた。


 音がした。


 この空間で初めて、音が届いた。ペンケースが床に叩きつけられた音だけが、透の耳に正しく届いた。


 透はその音に向かって走った。


 つまずいた。


 床板の継ぎ目が開いていた。つま先が隙間に入った。透は膝から落ちた。両手で床をついた。床の感触があった。冷たかった。それだけで少し安心した。


 上を向いた。


 部屋の中に、額縁が増えていた。


 増えたのではなかった。部屋の境目という境目に、最初から掛かっていたものが、今になって見え始めていた。壁と壁の境目。窓と壁の境目。天井と壁の境目。それぞれに一つずつ刺さっていた。


 どれも正面から見るとただの額縁だった。


 どれも視線を外すと、黒い空洞を透へ向けていた。


---


 透は立ち上がろうとした。


 立ち上がろうとした瞬間、左足だけが床に残った。


 膝は動いた。だが、膝から下がついてこなかった。


 透はすぐに理解できなかった。


 額縁の中に、見慣れたスニーカーがあった。自分の左足だった。


 体はここにある。足もここにある。なのに、膝から下だけが、額縁の向こうに飾られていた。


 左のすねから下が、薄い紙を水に浸したように透けていた。靴の輪郭だけが残っていた。中の足が、半分ほど額縁の黒に吸われていた。額縁の金の彫刻が、左足の輪郭に沿うように閉じていた。噛んでいるのではない。囲って、飾っていた。


 透は左足を引いた。


 膝は動いた。だが、額縁の中の膝下だけが遅れた。


 引くほど、足の感触が薄くなった。引き抜いているのではなく、削っていた。


透「……っ」


 声にならなかった。


 透は止まった。


 左足の削れが、止まった。感触が、少し戻った。完全には戻らなかった。


ヌル「止まれ」


透「止まってる」


ヌル「それ以上減らすな」


 透を心配する声ではなかった。


 残りの額縁が、また少し近づいていた。止まっているのに、近づいていた。


 透は膝をついたまま動けなかった。動けばまた削れる。動かなければ額縁が近づく。どちらも選べなかった。


 窓の外の風の音が、遠かった。由紀の洗い物の音が、水の底から聞こえた。


 ここはまだ自分の部屋だった。そのはずなのに、出られなかった。


---


 透は左足を見た。


 膝から下が、まだそこにあった。輪郭が薄いだけで、あった。


 走れる足だった。高校の三年間、その足で地面を蹴ってきた。スタートの一歩目で、今日がいい日かどうかを確かめてきた。


 その足の端が、今、分からなかった。


透「戻り方を教えろ」


ヌル「……」


透「頼む」


 少し間があった。


ヌル「貸せ」


透「何を」


ヌル「体だ」


---


 透は答えられなかった。


 体を貸す。その言葉が、左足より深いところを冷やした。


 風に飛ばされた看板を、白い手が掴んだ。あの時の感触が戻った。金属の重さ。雨の冷たさ。手の内側にいた声。


 もうお前だけのものではない。


 あの時は逃げた。今も断れるはずだった。


 残りの額縁が、また少し近づいていた。黒い空洞が、透へ向いていた。


 左足の輪郭が、またわずかに薄くなっていた。止まっているのに、削れていた。


ヌル「貸せ」


 透は答えられなかった。


 まだ自分の体だと、言い切れなかった。

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