第2話 光の手
台風の日、というには風が強すぎた。
天気予報では「暴風域には入らない」と言っていたが、昼を過ぎた折坂の空は完全に閉じていた。駅の方から風が来て、傘が意味をなさない。透は傘をたたんで腕に抱えたまま、折坂大学から駅に向かう坂道を下っていた。
雨が横から来た。首の後ろが濡れた。
坂の中ほどで、小学生の列が止まっていた。十人ほど。担任らしき教員が先頭で止まって、横断歩道の向こうを確認している。子供たちが固まって、風に少し揺れていた。
透はその列の十メートルほど後ろを歩いていた。
横の電柱の根元に、飲食店の看板が立っていた。金属製の、縦長の立て看板だった。チェーンで留められているはずだったが、風が来るたびに大きく揺れていた。
チェーンが鳴った。
一度、金属が悲鳴のように跳ねた。次の瞬間、留め具が外れた。看板の腹が、風を受けて膨らんだように傾いた。重さのある音が空気に走った。
倒れる先に、子供たちの列があった。
教員はまだ気づいていなかった。子供たちは並んだまま、前を向いていた。
透の体が動いた。
手を伸ばした。
届くはずがなかった。
そのはずなのに、透の手の先に、もう一つの手が重なった。
白かった。
光というより、骨のない手だった。指の形をしているのに、指ではない。雨粒がその輪郭に触れた瞬間、横へ弾かれた。白い軌跡が、坂道の空気を裂いて伸びていく。
透の腕はここにある。
なのに、透の手だけが、十メートル先にあった。
白い手が、看板の縁を掴んだ。
重さが来た。
十メートル先の金属の重さが、透の手のひらの中に来た。傾きかけた看板を、空中で押し返している。その力が、今、自分の手から出ていた。
一秒。二秒。看板がゆっくりと元の位置に戻った。チェーンが引っかかりなおした音がした。
白い手は消えた。
教員が振り返った。看板を見た。首をかしげた。子供たちの列が横断歩道を渡り始めた。誰も足を止めない。誰も透を見なかった。
世界の中で、今の白いものを見たのは透だけだった。
透は自分の手を見た。手のひらが熱かった。金属の重さが、まだそこに残っていた。
体の内側で、何かが身じろぎした。
胃でも、肺でも、心臓でもない場所だった。それなのに、そこに空間があると分かった。
誰かが、そこにいた。
ヌル「もうお前だけのものではない」
声は体の外ではなかった。頭の中でもなかった。もっと奥から来た。言葉が伝わったというより、意味だけが直接、透の中に置かれた。温度がなかった。質感がなかった。
雨が透の頭を叩いた。子供たちの列はもう渡っていた。教員が手を下ろしていた。誰も透を見ていなかった。透が何をしたか、誰も知らなかった。
透は坂の途中に立ったまま、動けなかった。
手が震えていた。
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走った。
理由を考えなかった。坂を下って、駅を過ぎて、住宅地の細い道を走った。雨が強くなった。傘は腕に抱えたままだった。
走るたびに、胸の奥で声の位置が揺れた。心臓より深い場所で、誰かが静かにしている気がした。
ヌル「外へ逃げるなら好きにしろ」
透は走り続けた。
ヌル「私は外にはいない」
声は追ってこなかった。追う必要がなかった。
透は立ち止まった。
細い路地だった。両側に古い家が並んでいた。誰もいなかった。雨音だけがあった。
透「誰だ」
返事はなかった。
透「誰だと聞いてる」
ヌル「四週間前。右手の甲。白い欠片」
透は息を止めた。
ヌル「お前は忘れたつもりでいた」
透「……見てたのか」
ヌル「そこにいた」
透「体から出ていけ」
声は答えなかった。
聞こえていないのではなかった。答える対象として、数えられていなかった。
透「さっきのは何だ」
ヌル「お前の手では届かなかった」
透「分かってる」
ヌル「だから、私が入った」
それきりだった。
透は壁に背中をつけた。壁が濡れていた。雨が顔に当たった。
何かを聞こうとした。声は来なかった。
四週間前から、夢があった。玉座があった。空白の顔があった。そして充実感があった。全部がつながっていた。つながりが見えた瞬間、透は見えなかった頃に戻りたかった。
透「もう話しかけるな」
声は答えなかった。
透は歩き始めた。
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家に帰ってから、三時間、透は自分の部屋にいた。
ベッドに寝転がって、天井を見ていた。声はなかった。体の中に何かがいる感覚は消えなかった。ただ、声はなかった。
手の熱さは引いていた。手のひらを開いて、閉じた。何もなかった。傷もなかった。看板の重さだけが、記憶の中にあった。
由紀が下から呼んだ。
由紀「夕ご飯できてるよ」
透は返事をして、体を起こした。階段を下りる途中で、声を思い出した。もうお前だけのものではない、という言葉を思い出した。
食卓に座って、由紀の話を聞いた。商店街の近くで看板が倒れたという話だった。
由紀「台風って言ってたのに直撃じゃないの、あれ」
由紀「怪我した人はいなかったみたいだけど」
透はご飯を食べた。
声は来なかった。
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翌日も、声は来なかった。
一日が終わった。その次の日も、来なかった。
透は授業に出て、食堂に行って、家に帰った。圭と昼を食べた。圭が机を二回叩いてから顔を上げた。
圭「台風でテストが延びたの、知ってた?」
透は知らなかった。
透「ラッキーじゃん」
圭「全然ラッキーじゃないけど」
圭は笑った。
普通の日だった。
声は来なかった。
だが、消えてもいなかった。
それだけが分かっていた。
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一週間後の深夜、透は目が覚めた。
夢を見ていた。いつもと同じ夢だった。高い場所。玉座。空白の顔。高揚感。
目覚めてから、その充実感が胸に残った。いつも通りだった。
部屋が静かだった。
声が来た。
ヌル「お前はあの時、間に合わないと知っていた」
透は答えなかった。
ヌル「それでも手を伸ばした」
透「関係ない」
声は、その言葉を拾わなかった。
ヌル「子供を救いたかったのではない」
ヌル「救わなかった自分を、見たくなかった」
そこで声は止まった。判決のようだった。
透は天井を見ていた。言い返す言葉が、最初から見つからなかった。
目を閉じた。眠れなかった。眠れないまま、朝になった。




