第1話 降る日
真瀬透は、三限をさぼった。
理由はなかった。行く理由も、なかった。
折坂大学の第三講義棟は、透が入学してから二年間ほとんど顔つきが変わっていない。古い空調の音と、廊下の湿った空気と、何年も前に誰かが張ったままのポスター。その中を人が流れ、講義に入り、出てくる。流れの外で突っ立っていると、自分だけ動いていないように見えた。実際は自分が止まっているだけだったが。
食堂へ下りた。
昼を過ぎた食堂は空いていた。端のテーブルに佐伯圭がいた。前の席に荷物を広げて、スマートフォンを見ている。透が向かいの椅子を引くと、冷えた金属が手に触れた。圭は目を上げずに言った。
「来るかと思ってた」
「なんで」
「三限、お前が来る顔じゃなかった」
透は紙コップに水を汲んで戻った。薄い紙の感触が手の中にあった。圭の前に置いてから、自分の分を飲んだ。冷えていた。
圭が机を、とん、とん、と二回叩いた。それから顔を上げた。
「来年どうすんの」
唐突だった。唐突を装っているだけかもしれなかった。どちらでもよかった。
「知らん」と透は言った。
「就活は」
「考えてない」
「大学院は」
「考えてない」
「お前、何か考えてんの」
「考えてない」
本当に考えていなかった。
何をやりたいのかさえ、最近は分からなくなっていた。
大学に入った頃は、まだ走る側にいるつもりだった。高校まで短距離をやっていた。速い方ではあった。
圭も速かった。
家が近くて、小さい頃からよく一緒に走った。中学でも、高校でも、百メートルはだいたい透か圭のどちらかが一番だった。負けた方が、帰りにコンビニで飲み物を買う。そういう雑な決まりだけが、何年も続いていた。
膝を壊してから、その線が切れた。
治れば戻れると思っていた。戻れなかった。競技をやめて、スポーツに関わる仕事のことも考えなくなって、気づいたら、何を目指していたのかも薄くなっていた。
圭は、その頃の透を知っている。
圭は笑った。呆れているのか、同意しているのか、その両方なのか、付き合いが長いのに、圭の笑い方だけは読み切れなかった。食堂の天井の蛍光灯が一本、微かにちらついていた。
「じゃあ来年も知らん同盟な」
「お前は考えてんだろ」
「まあ」
「どうすんの」
「まだ」と圭は言った。そこで止まった。
透は水を飲んだ。氷が溶けていた。圭が何かを言いかけてやめたのは分かったが、透は聞かなかった。聞く必要がないと思ったわけではない。今聞く話ではないと、何となく感じた。
外が少し曇っていた。食堂の窓から、折坂の空が見えた。何も変わらない空だった。ここに来て二年、この街は何も変わっていない。坂が多くて、駅前だけ新しくて、少し歩くと古い住宅地と大学の建物が混ざっていて、何かが起きそうで、何も起きない。
それを退屈と呼ぶかどうか、透にはまだ分からなかった。
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家に帰ると、由紀が夕食を作っていた。
「今日は早いね」と言いながら、透の顔を一瞬見た。心配かどうか判別できない視線だった。
「三限なかった」
「そう」
「うん」
台所の匂いがした。透は自分の部屋に荷物を置いてから、戻ってきてテーブルに座った。由紀がみそ汁の鍋をかき混ぜている背中を見ていた。
由紀は食事をよそう前に、必ず透の茶碗を少しだけ手前に寄せる。透はそれを、いつも見ないふりで受け取っていた。
「ご飯、もう少し待って」
「うん」
「最近ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「顔色が」
「食べてる」
由紀が振り返った。また一瞬、視線が透の顔の上で止まった。箸を置く音がした。それから、まあいいか、という顔をして鍋に戻った。
こういうやり取りが、ここ何年か続いていた。由紀は何か言おうとして、透が先に答えて、由紀が引き下がる。悪い関係ではなかった。ただ、言葉が一周手前で止まる習慣がついていた。透はそれを居心地悪いと思ったことはなかった。
夕食を食べた。おいしかった。それだけだった。
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翌朝、白いものが降った。
透が家を出た直後だった。九時前の折坂の空は薄曇りで、駅へ向かう坂道を下りながら、透は特に何も考えていなかった。
最初は目のせいかと思った。
視界の端に、何かがある。光の粒というより、何かが削れて落ちてきたものに見えた。雪ではない。季節が違う。何か別のものが、音もなく降っていた。降っているのか、ただ漂っているのかも分からない。見ようとすると、目の焦点がどこに合わせていいか分からなくなる。
透は立ち止まった。
周りの人間は誰も気にしていなかった。前から来たスーツ姿の男が透の横を通り過ぎた。坂の下から自転車が上がってきた。誰も足を止めない。何も見えていないのか、見えていても無視しているのか。
白いものが肩の辺りを通り過ぎた。
透は何となく手を振った。虫を払うような動作だった。
その手の、甲の辺りに何かが触れた。
触れた、と思った次の瞬間には、もうなかった。皮膚に吸い込まれたような、そういう感覚だけが残った。温度はなかった。痛みもなかった。ただ、何かが入った、という感触だけが、一拍だけ手に残って、消えた。
透は自分の手を見た。
何もなかった。
坂道を風が吹いた。白いものは、もう見えなかった。
透はしばらくそのまま立っていた。遅刻しそうだと気づいて、坂を下り始めた。
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その夜から、夢を見た。
どんな夢だったか、目覚めると細部は消えた。覚えているのは高さだけだった。ひどく高い場所にいた。空だったかもしれない。床があったかもしれない。椅子があった。玉座だと思った。なぜそう思ったのかは、目覚めると分からなかった。誰かの顔が目の前にあった気がしたが、顔の部分だけ空白だった。
気持ちよかった。
それだけは鮮明に残った。目覚めるたびに、胸の奥に何かが満ちている感覚があった。何が満ちているのかは分からない。ただ、充実していた。今まで空いていた場所に、何かが入ってきたような感触。
夢は毎晩続いた。
中身はいつも違った。ただ、高さだけは変わらなかった。そこに座るものの気配も。
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三週間後の午後、折坂大学の前の道を歩いていた時、透は自分の影が変な方向に伸びているのに気づいた。
左で光っているはずの照明へ向かって、透の影が伸びていた。
透は立ち止まった。影を見た。光源を見た。また影を見た。
影が光を追いかけていた。
五秒ほど見ていたら、影は普通に戻った。
透は少しの間その場に立っていた。気のせいかもしれない、と思った。目が疲れているのかもしれない、と思った。
それから歩き始めた。足元の影は、正しい方向に伸びていた。
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四週間後の昼、食堂に圭がいた。
いつものテーブルだった。透が向かいに座った。
圭が何か言いかけた。
透は外を見ていた。
圭が机を、とん、とん、と二回叩いた。
透がやっと顔を向けると、圭は何でもない顔をしていた。
「生きてる?」
「生きてる」
「よかった」
それだけだった。圭はまたスマートフォンを見始めた。透は水を飲んだ。
しばらくしてから、圭がぼそっと言った。
「返事できない時、とりあえず二回叩けばいいわ」
「何の話だよ」
「生存確認」圭は机をとん、とんと叩いた。「二回で足りる」
「雑だな」
「分かりやすいだろ」
透は少し笑った。圭は笑ったような顔をして、すぐに水を飲んだ。
意味があるのかないのか分からない話だった。圭はよくそういうことを言う。透はそれを、特に深く考えなかった。
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折坂大学の前の道には、何も見えなかった。
透は、そのまま歩いた。




