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君じゃない君が好き

彼オリジナルの呪いが、今、初めて鮮明に僕の瞳に映し出された。


黒いモヤはゆっくりと這うように広がり、やがて彼の足元に底の見えない漆黒の深淵を作り上げる。

それは以前、どこかで目にしたことのある光景だった。


確か……あっ、あの、丸山くんのドッペルゲンガーの時。

___あの魔物が作り出した深淵とそっくりだった。


今度は迷わなかった。彼が何を考えているにしろ、もう立ち止まるわけにはいかない。判断が遅ければそれだけややこしい事態になることも、ここ最近の僕は嫌というほど思い知らされていた。


すぐに、有馬くんとの距離を詰めようと一歩を踏み出す。しかし足元にランニングマシンでもあるのかというほど、走っても走っても全く前へ進むことができなかった。加えて、逆に遠ざかっているようにも感じる。なんなんだこの現象は……。ドッペルゲンガーと対峙したときはこんな現象はなかったはず……。彼に近づこうとすればするほど、トリックアートのように彼が遠ざかっていく。


僕の目の前で、次第に有馬くんの背後や足元に集まった黒いモヤは、彼を呑み込むのかと思いきや、シュッと風のようにその身体へ吸い込まれていくように見え……ん?いや、有馬くんの後方へ消えていったのか? 僕は彼を正面から捉えていたので、彼の背中に吸い込まれて行ったように見えたが、どこかへ霧散したという可能性もある気がする。モヤの行く先に注目しながらそんな考察を無意識に巡らせ、ふと彼の表情に視線を戻す。


彼は、目や鼻、口、そして耳の穴から黒い液体を垂れ流し、満面の笑みで僕を見つめていた。


「うわぁああああ!!!」


その禍々しい光景に思わずゾッとして声を張り上げる。僕の叫び声は、人気のない路地に虚しく響き渡った。

……その反響に誘い出されたかのように、今度は人々の話し声や、ハイヒールがアスファルトを叩く音、靴先の尖った革靴の、乾いた足音などが続々と戻ってきた。まるで今まで耳にイヤホンをしていたかと錯覚するほど、だんだんミュートが解除されていくように、グラデーションを帯びて日常の生活音や自然の音が蘇ってくる。

僕は今の今まで何の違和感もなくここまで歩いてきたというのに、音が聞こえ始めて初めて、"今まで音が一切なかったこと"の不自然さに気がついた。


まばたきをして彼をもう一度見ると、そこにはいつもの有馬くんが、やはり複雑な表情をして立っていた。


僕の心臓はいまだに激しく脈打っている。一瞬見えたあれは、一体、なんだったんだ……? 一瞬、有馬くんの顔のいたるところから黒い液体が流れ落ちていたのは……気のせいだと言い聞かせたい。しかしこの唐突に溢れ返る音も不気味だ。いや逆か。さっきまで物音ひとつしない、静まり返っていた空間がおかしかったのだ。僕の叫び声を引き金にして急に息を吹き返したように音が溢れてきた現象を考えると、もしかして僕は無防備な状態で魔物の結界内に入り込んでいたのか……?

そもそも、先ほどまでこんなに歩行者がいただろうか……。一体、いつから…そしてどこから…?


ざわめき出した人々の声は、僕の叫び声に驚いたのか一段静かになり、「何?」「事件?」「見ないほうがいいよ、関わんないほうがいいって」「てかこんな道あった?」「俺あんまここら辺来ないから知らん」などと、ヒソヒソと話し始める。


__あれは本当に人間なのだろうか…。やはりまたしても、魔物の結界の領域に迷い込んでしまったのか。

いや、そんな不確定要素よりも優先すべきは……。


僕は有馬くんの無事を確かめるため、差し伸べた手で初めて彼に触れた。

彼の腕は驚くほど温かく、そのぬくもりにほんの少しだけ安堵を覚える。皮膚の感触は滑らかで、そのすぐ下で確かな筋肉の強ばりが感じられた。彼は緊張した面持ちで大人しく僕に両腕を拘束されたまま、ただ立ち尽くしている。僕は彼の目をしっかりと見つめようと、じっと視線が合うのを待った。


しばらくして有馬くんは、少しだけ視線を上にあげ、僕と目を合わせた。その目、そして表情には酷い疲労の色が張り付いており、もう腕を振り払う気力すら残っていないように見えた。


「律樹にずっと触ってもらいたかったよ、こういう形じゃなくて」


有馬くんは、どこか痛々しい笑みを浮かべた。


「手、放してくれる?俺、君じゃない律樹が好きなんだ」

「私じゃない私?私は、私だよ?」


言葉の真意が呑み込めず、僕は彼の希望通り、彼の目の前でいったん粒子に戻り、再構成の力で女の姿へと姿を変えて見せた。この姿ではない僕が好きだと、彼が言ったからだ。

女の姿に戻れば、きっと彼は安堵し、自分を取り戻してくれると思った。

だが、返ってきたのは全く真逆の反応だった。


有馬くんは再構成の一部始終を網膜に焼き付け、瞳孔を大きく見開いたかと思うと、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。それは驚愕を通り越し、絶望に近い表情だった。


なぜ……。なぜ……。君が望んだんじゃないか。僕に女の姿に戻って欲しいと。その通りにして見せたのに、一体なぜ君はそんな表情をするんだ。


まるで最愛の人の訃報を聞かされたかのような、あまりにも壊れそうな顔だった。今にもふっと息を吹きかけたらぺらぺらと飛んでいってしまいそうなくらい頼りなく、不安定に揺れている。肩を落として項垂れる彼の、簾のような細い髪の隙間から覗く表情は、安堵の色は微塵も無かった。


全くわからない……どうして、どうしてこの姿でも彼は絶望するのか………。僕は何をしでかしたんだ……?


「ひどい…最低…有り得ねー…なんで……嘘だろ、じゃあ律樹は俺の妄想だったってこと?何?何これ?何のドッキリ?妄想?現実?現実だけは無理、絶対嫌だ、勘弁してくれ、じゃあ何、俺は病気だったってこと?病気だったってこと?だったってこと?」

「……び、病気?妄想?違うよ、私はここにいるし、君と触れ合ってるよ」

「いやいやいや……俺……きめー、やっば、頭悪、精神異常じゃん、どこから?どこから俺、間違ったんだろ、いや1番最初だな、生まれた時から間違ってたな…うん、知ってた……てか知ってたじゃん俺、ずっと間違いまくってたし…な?だから、だから……うわー、最悪、きつ……」

「有馬くん、私は現実だよ、ここにいる。話してるよ」


しかし、僕の声は彼の耳には届いていないも同然だった。有馬くんはストレスに口角を引きつらせると、ずるずると僕の足元へ崩れ落ちていく。


「全部天罰だ…俺が今までしてきたことの因果応報だ…すみません…すみませんでした…精神異常者がいい思いしてきてすみませんでした…」


彼は背中を丸め、冷たいアスファルトに膝をつき、地面に向かって懺悔を始めた。突拍子もないその行動に、僕はどう対応すべきか分からず、ただ呆然と立ち尽くす。鼓動が再び跳ね上がり、冷たい汗が背中を伝うのを感じる。彼の感情が一片も理解できないせいで、僕が何か行動する度に彼を傷つけてしまっている気がする。この八方塞がりのように思える現実に目眩がしてくる。


はあ…。誰か、誰か……。助けて…。分かんなくなっちゃった…。


「てかなんで俺のせいなんだよ……もとはと言えばあのクソジジイのせいだろうが……なんで…なんで俺ばっかりずっと負け組であのクソジジイだけ良い思いしてんだよ……死ね……死ね……死ね!!」


こうしているうちにも有馬くんは取り乱し、暴走寸前だった。

僕はどうすればいい……。今の彼に声をかけて、さらに状態を悪化させるのが心の底から怖い。僕のせいで彼の呪いがさらに肥大化し、呪いを呼ぶ起点になってしまったらと思うと、足がすくんで一歩も動けない。

僕は、ブツブツと怒りや憎しみに満ちた言葉を紡ぐ彼を見下ろし、この状況から抜け出す術がないか、思考を巡らせていた。


……そうだ、テレパシーだ___誰かに、誰かに応援を呼ぼう。えっと……い、今の通信環境は……目に入る文字……文字…記号でもいい…記号……

と意識を集中させかけた。


その刹那、有馬くんは急に声を張り上げ、子供のように泣き出した。


「ぁああああああ! ああああああああ!!!」


耳を劈くような絶叫に頭が真っ白になり、僕は思考を放棄し、情けなくもただ丸まった彼の背中をさすることしかできなかった。どうにかしなくてはならないのに、頭の中は完全にフリーズしている。

心臓は激しいリズムで暴れ回り、その鼓動のたびにみぞおちに、ずーんとした重みが冷たく圧迫し、その息苦しさに両手の震えが止まらなくなった。

だめだ、このままでは僕まで呑み込まれる。いったん感情を止めよう。これ以上恐怖や動揺を感じたら、正常な判断ができなくなり、僕はこの形を保てなくなってしまうかもしれない。


えっと……とりあえず、あっ、その前に有馬くんの……記憶を消そう。それが最優先だ。こうなるから、こうなるから人の前で魔法なんて使ってはいけなかったんだ。

僕は震える指先からゆっくりと手のひらを彼の背中に添え、記憶消去の魔法を発動しようと魔力を練り上げた。練り上げた魔力は彼の背中に流し込み、首を通り、そして記憶を司る脳へ、深層へとアプローチする……。


だが、その魔力の流れは途中でプツリと途絶えた。

違和感を覚える間もなく、さきほどまで僕の足元でうずくまり、泣き叫んでいたはずの有馬くんは、いつの間にかすっと立ち上がり僕を見下ろすように立っていた。


一瞬の出来事に理解が追いつかず、呆然と見上げる僕を他所に、彼はケロリとした表情でこう言った。


「あ〜、スッキリした! 律樹、また明日ね! この後雨降るみたいだから、気をつけてね!大好き!」


そう言い残すやいなや、彼は何事もなかったかのように駅の方へ走り去っていった。

僕は一連のめまぐるしい展開に全くついていけず、その場に座り込んだ姿勢のまま、ただただ彼の遠ざかる背中を見送ることしかできなかった。

胸の奥で、僕の心臓だけが、まだ激しい音を立て続けていた。

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