有馬くん、がっかりだよ
「じゃあ、俺を受け入れろよ!!」
有馬くんは声を荒げた。人気のない路地には彼の叫びが反響し、まるでトンネルの中か何かにいるのかと思わせるほどに遠くまで響いた。僕は一生懸命に彼の腕から逃れようと、自分の腕をぶんぶんと振り回す。しかし、今の僕は160センチ台で、彼は170センチ台後半だ。それに彼の腕には最近鍛え始めたことを想起させるような筋肉が盛り上がり、手首は今の僕の倍の太さだ。力で勝てる気はしない。かといって彼とまともな話し合いができるような状況でもない。
彼は今ヒステリーを起こしている状態だ。
僕は判断に迷い、混乱に陥っていた。このまま、今の僕…私の姿を変え、男の肉体に変身することで身体能力の差を埋めるべきか。またはこの姿のまま説得、どこかのタイミングを見計らって逃げ出すか。
後者の場合、うまくいくだろうか?彼はここに来るまで私の言葉に対してほとんど反応を示さなかった。この後も訴えかけを続けて、なんの効果も得られなかったら?そもそも彼はどこに向かい、何をするつもりなのか?私は考えているこの瞬間にも彼の力強い腕に抵抗することすら無意味に、引きずられるように闇へと連れ去られそうになっている。判断に緊急性がある。ためらっている場合じゃない。元はと言えば僕の危機管理能力の甘さでこんなことになっているのだから、早急に手を打たなくては。
私はその場で、___変身することを決断した。
形を想像して、そのスーツに着替えるように肉体を変身させる。私は1度、ほんの一瞬、粒子に戻り、再構成を試みる。肉体の性別を入れ替える程度であれば、わざわざ変身するための鍵を下腹部に差し込む必要はない。
私はイメージをする。男の姿の、私の形を……。
有馬くんは再構成の際に発される輝きと、粒子になった僕の腕の感触に違和感を覚えたのか、すぐに気がついて振り向いた。埃をかぶった豆電球の街灯が、不穏にチカチカと二人を照らしていた。僕が粒子へと解け、再構成された瞬間の閃光は、その不穏な街灯の光を一瞬でかき消した。
僕は男の姿に変身し終えると、僕の腕をホールドしていた有馬くんの指を押し上げ、腕は一回り大きく、太くなり、身長も彼よりも大きく……。筋肉もほどよくスタイリッシュに纏い、明滅する光の中、彼の目の前に現れた。
有馬くんの顔色が急速に青ざめていく。額に汗をにじませながら、しぶしぶと手を離した。いや、離さざるを得なかった、が正しいか。有馬くんはお手本のような後ずさりをし、アスファルトを擦るその足音が、静まり返った路地に心細く響く。僕の姿を見下ろし、見上げを繰り返し、胸に傷の残る手を当てて呼吸を落ち着かせていた。
「お、おま、お前…、お前は誰だ」
動揺でうまく言葉が紡げず、さらに後ずさりをする彼。そりゃそうだ。この現象を見てまったく驚かないほうが不思議だ。ここで驚かなければ、今後何が起こっても動揺することは無いだろう。有馬くんは小刻みに肩を震わせながら、お化けでも見たかのような怯えきった表情で僕を見つめた。
ああ、有馬くんはこんなに小さい。僕の腕を掴んでいた力だって今では大したことはない。この肉体はやはり慎重に有効活用すべきだな。
力を破滅ではなく発展に向かわせるには、こういう小さなポイントでも注意を払って使わなくては。今の僕はおそらく有馬くんよりも力が強い。怒りに任せて彼の命…星々を宇宙に返すなんてことにならないようにしなくては。きっと彼がここにいるのも、何かやらなくてはならないことがあるからだろう。それが、今の彼にはいろいろな要因からうまく発揮できていない。どうにかして、彼のいるべき場所に戻さねば。そのために僕は、無理やりではなく、彼が進んで元の場所に戻るよう仕向けなければ。そんな思いが、塵のように頭の中のそこらじゅうに散らばっていた。
「有馬くん、驚かせてごめん、でも今説明をしてる時間はないから、端的に話す。お願いだから聞く耳だけでも持ってほしい」
「はあ?てか律樹はどこ行った?お前誰だよ!律樹を返せ!」
有馬くんは威嚇するように叫んだ。反射的に喉が鳴り、顔もこわばっている様子だ。彼の胸元を見ると、手先まで震えている。それから顔に視線をやると、先程の支配欲にまみれた目つきとは打って変わり、捕食される側の生き物のように、ただただ殺されないように懇願するしかないような、そんな顔をしている。惨めな…。
「有馬くん、僕が律樹だよ」
「意味わからないこと言ってんじゃねえ、誰だよお前、なんなんだよ」
…その通りだ。「何なんだよ」って感じだよね。まさに。まあ、別に今すぐに僕が律樹だと理解される必要はない。
彼は依然として混乱状態に陥っている。やはり彼の反応を見るに、この世界では形がとても重要なようだ。力の差など、個体ごとの違いがあるということも形が重要になる要因のひとつでもあるかと思われるが……。
長らく換えていないであろう、埃をかぶってグレーになっている豆電球の街灯が、再び彼を照らす。
「…律樹…。律樹だってば。有馬くん、僕はずっと君と友達になりたかった。でも君はそれを望んでいなかったみたいだね」
「はあ??律樹だ?お前なんて初対面だよ、友達も何も、今どこからどうやって律樹と代わったか、その話が先だ!」
「混乱するのも無理ないよね…ごめんね、本当は僕もこんな手を選びたくなかった。でも有馬くん、きっと話を聞かずに僕をどこかへ連れていく気だったよね」
夏真っ只中の湿気を含んだじめっとした空気が、二人の間の重苦しい沈黙をさらに濃厚にしていく。しかし有馬くんからは依然として嫌な気配や臭いはしない。本当に、彼は何かに操られていたとかではなく、彼自身の頭に従って行動を起こしていたようだ。
僕はその事実にも落胆した。人の悪意…いや、愛がいつの間にか所有、支配欲となってしまうことに対しての落胆…。
愛を愛のままにできないことへの落胆…。
本当は、僕は有馬くんを信じていたかった。悪い人ではないと思いたかった。でも彼は、ひたすら僕の良心を都合よく解釈し、真実に蓋をし、強引に関係を進めようとしていた。その僕の純粋な気持ちへの裏切りともとれる行為に対しての落胆…。あるいは、彼のバックボーンにも問題がありそうだ、と理由付けて僕は全てを包み込んであげることを選択し、僕自身の幸せを蔑ろにしていた、僕の自己犠牲的な判断への落胆…。それもこれも全ては彼の裏切りが発端だ。
有馬くん、がっかりだよ。
「気持ち悪い…お前ホント、なんなんだ…」
有馬くんは“分からない”という空白に恐怖し、その空白を理解で埋めようとせず、楽な手段…“気持ち悪い”というレッテル貼りで埋め固め、それ以上の都合の悪い想像をせき止めることに成功し、身を守った。
「…有馬くんは本当に強引で、自己中心的で、他責だったね、あのまま僕が変身していなかったら君は僕をどうするつもりだったのかな?想像して苛立ちでどうにかなりそうだよ。今ならどうにかできる状況だから、尚更…」
「変身?な、どういうこと?」
「有馬くんの言う通り、僕もさ、限界があったことに気がついたよ。もういいや、って感じ。また君の記憶を消せばそれで解決だし…」
「お前、なんの説明にもなってない。律樹がどこに行ったか、お前が誰なのか、何をしたのか言え!!」
僕は今、とても感情的だ。僕の中の炎が増幅して留まるところを知らない。正直、僕の中の冥王星のかけらが作用しているのか分からないが…それとも今の星回りはどうだっけ?逆行中の星があったっけ…?とにかく苛立ちが収まらず、今すぐにでもゼロか100の選択をしたくなっている。これが感情…。
「じゃあ、律樹と君しか知らない話をしようか。さっきの有馬くんとの思い出の場所でのディナーデート、君の自慢話、本当につまらなかったよ…それに君は会話がまったくできないよね。頷いてもらえれば君は誰でもいいんだよね?ただ自分を肯定してもらえるロボットが欲しいだけだよね?それに君は都合よく被害者面をするし、悲劇のヒーローでいたがるから、解決案を出しても意味がなかったんだね」
「お前…なんで…なん、なんで…」
有馬くんは言葉を失い、口を鯉のようにパクパクとさせていた。その姿はより惨めで滑稽で、とても気分が良かった。この気分の良さが質のいいものではないとは頭の片隅で理解していたが、なんともこの高揚感が言い難い…快感で…。有馬くんはこの高揚感のために人を見下していたのかな…などと、目の前に有馬くんがいるにもかかわらず思いを馳せていた。
「…ただ、家族の話をする時の君だけは、すごくいい表情をしてたよ、ただそれだけ。有馬くん、もう僕に関わるのは終わりにしてくれないか」
「…お前、いや、君は…本当に、本当に…理解が追いつかないけど…本当に…律樹なの?」
徐々に口調に柔らかみが戻る彼。理解し難い状況にも関わらず、少しでも女の姿の律樹が僕である可能性が出てきた今、有馬くんは大きな目をさらに大きく見開き、目の前の状況に体を硬直させていた。
「そうだよ、僕は律樹だよ」
瞬間、
彼の周囲の背景の輪郭が、ほんのりと歪んだ。彼とその背景の境界線が急速に薄れ、境界線はじわじわと黒いモヤに支配された。有馬くんの足元からも、まるでタールのようにドロドロとした黒い澱のようなものが滲み出す。
彼は、混乱しながらも、徐々に目の前の状況を理解せざるを得なくなっていくことに対する複雑な感情をどう処理したらいいかの、やり場のない怒り…?そして、もしこれが現実なのだとしたら、いったいなぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか、という怒り…。今の僕には、せいぜいその2種類の怒りの感情程度のことしか、彼の表情や仕草から読み取ることができなかった。
もしかすると、僕がまだこの惑星の常識に馴染みきれていないことも、彼の真意をそれ以上察することができない理由のひとつなのかもしれない。
八雲は、僕よりもこの惑星に馴染んでいないからこそ、僕のことを「この惑星の存在に近すぎる」とかなんとか言っていたけれど……。それでも、この惑星に生きる存在たちが何を感じ、何に心を囚われ、何を譲れないものとして抱えているのか、僕にはまだ理解できないことが多すぎた。
彼はまだ半信半疑というか、いや、二信八疑といったところだろうか。
目の前の現実を受け入れきれずにいる彼の内側で、いったい何が渦巻いているのだろう。何が、彼にこれほどまでに黒々とした感情を抱かせているのか。
僕は彼の表情をうかがいながら、答えの出ない問いを胸の内で転がしていた。
その間にも、彼の足元から滲み出した黒いものは、意思を持つ生き物のようにゆっくりと蠢き、背後へと這い広がっていく。まるで彼の内側に押し込められていた何かが、とうとう堰を切って溢れ出したかのように。
黒い影は次第にその勢いを増し、周囲の空間を侵食していった。やがて目に映るすべてを呑み込んでしまいそうなほどに、その黒々とした輪郭を広げ始めた。
彼オリジナルの呪いが、今、初めて鮮明に僕の瞳に映し出された。




