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俺は、走っていた。いつの間にか、走っていた。というか、走らされていた? 記憶が断片的に存在し、ところどころ抜け落ちているが、全体の流れは把握できる。
一体今、俺には何が起きている…? 何で俺は…。いや、これ以上情報は欲しくない。律樹が何なのかも、今は考えたくない。
しかし、"あれ"は何なのだろうか。…人ではない何かであることは確かだが、その正体の名前を俺は知らない。
いや、そもそもあれは本当に存在するのか? 俺の妄想ではないか? いやいやいや、おいおい、やめろ、考えるな、無駄に呼吸に集中しろ、意味もなく苦しさに集中しろ、考えるな、考えるな!
そんなことを考えているうちに、だんだんと息が持たなくなってきた。呼吸の度に、まるで喉に細かい蜘蛛の糸が張られていくかのようにぜえぜえと突っかかるような、胸の奥に蜘蛛の巣が形成されていくような感覚になり、やがて口の中が鉄の味に染まっていく。俺は感情に反してぐるぐると回る思考を止めるすべもなく、駅の改札へと突っ走り、冷たいレンガの外壁に片手をついた。
この洗練された店が立ち並ぶ街の景観にまったく似合わない、顔を真っ赤にし、汗だくになった醜態は、通行人たちの見世物となった。
いつもならこんなところを他人に見られた日には羞恥心で死にたくなり、今後1年はこの街の空気を吸うことすら避けただろう。だが、今はそんなことはどうでもいい。ここを通る誰もが、"あれ"のことを呑気にも知らないのだから。俺だけが知っているこの世の………。なんというか……。……。
まあいい。
べっとりと汗で額に張り付いた俺の髪を、生温い夜風が優しく、なだめるように撫でた。
「律樹…」
律樹。
俺のミューズ。俺の星。俺のイレギュラー。
やっと見つけた、俺の運命の人。
…でも、律樹は人間じゃなかった。
絶望と混乱が脳を占める中、正解がないものについて今の心理状態で考えるのはダメだと分かりながら、俺はさっきまでの説明できない現象を回想していた。
そもそもさっきまでの俺も、俺自身もおかしかった。
記憶が断片的であるのもそうだが、6割が俺の意思で、4割が俺の意思ではない、なにか別の…無意識とでも言おうか。意識の裏で操り糸を引かれているような、気味の悪い感覚があった。
それともうひとつ。律樹は、"あれ"は何なのだろうか。俺の妄想だったのか、それともこれが夢なのか。前者の場合、それは有り得るだろうか。律樹は他の人間も認知しているし、この間も律樹のことで丸山と喧嘩をした。だから律樹は存在するはず。
…いや、こうなってくると、そもそも丸山も存在するのか? いやいや、それは流石にいるか。律樹がバイトのメンバーに加わる前から、あいつは居たし、俺以外ともつるんでたし。てことはこの今、駅の改札付近の外壁に手をついているこの状況が夢ではないのか?
夢だとしたら……どこから……?
そういえば今月の頭くらいにも、変な夢か現実か分からないような不気味なことに遭遇した。もしかしたらあの時からすでに全てが夢で、本当は電車の事故に遭い、今の俺は病院のベッドの上で昏睡状態……の可能性もある。
…や、やばい。分かんなくなってきた。
とりあえず俺は落ち着くために、汗だくで荒い呼吸のまま、行き交う通行人(…または夢の登場人物)の視線を突き刺すように浴びながら、追い立てられるように電車へと乗り込んだ。
☆
最寄り駅に到着すると、他の乗客はほとんど降りずに、ホームには俺だけがぽつんと取り残された。平日のこの時間ならまだそこらへんには帰宅するサラリーマンや大学生がウロウロしているはずだが、今日はやけに人気がなく、不気味なほど静まり返っている。俺はすでに考えることに疲れ切っており、鉛のように重い足を一歩ずつ前に引きずりながら改札を目指した。
「疲れた…」
気づくと言葉に漏れ出ていた。そうだ、本当に疲れた。最高のデートだったはずが、一体何で……こんなことに。
俺はただ、律樹とデートに行って、それからなんとなくいい雰囲気になって、俺の身の上話も少しだけして、それから……。「それから」の後に続く言葉が浮かばない。それから、どうしたかったんだ? 俺は律樹をどうしようとしてたんだろう。
てか、俺は自分の話をして何て言ってもらいたかったんだ?
☆
最寄り駅の改札を出ると、駅前の古びた自販機の前で、俺はぼんやりと突っ立っていた。自販機のボタンがチカチカと不規則に点滅し、俺は急かされている気分になり、急いで小銭を取り出した。
あんだけ走った上に混乱状態なのだから、まずは乾いた喉を潤したかった。
とりあえず…いつもの缶コーヒーのブラック…に手を伸ばそうとして、その隣の微糖のコーヒーのボタンに指を添えていた。
がこん、と鈍い音を立てて取り出し口に落ちてきた、冷たくて心地いい微糖の缶コーヒーを手に取ると、ふいに、なんだか無性にお母さんに会いたくなってきた。
お母さんもお父さんと同じように、俺のことを「弱ければ価値がない人間」だと思っていると最近まで思い込んでいて、そのプレッシャーから逃れたくて大学生になってから一人暮らしを始めた。
だけど今日、ふと8歳の時の誕生日の思い出を律樹に話したとき、心がかすかに緩んだのを感じていた。あの頃の、成績も悪く、運動神経も特に良いわけでもなく、これといった特技すらなかった俺の誕生日を、お母さんはあんな良い店で祝ってくれた。
…そんな記憶が、蘇る。
そういえばお母さんは、何だかんだずっと俺のそばにいてくれたな。
カシュ、と微糖の缶コーヒーのプルタブを引き上げる。
若干指に付着したコーヒーをぺろりと舐めてみると、とても甘ったるい。
…なんだこれ。いつも俺はブラックを飲んでいるから、甘すぎて、甘すぎて……。
「おいしい…」
視界が歪み、缶コーヒーの味はいつの間にかしょっぱくなっていた。
☆
片手に微糖の缶コーヒーを持ちながら夜道を歩いていると、思考がとめどなくあふれて頭がおかしくなりそうだった。今日のこと、お母さんのこと、お父さんのこと、律樹のこと、丸山のこと……。そもそも俺は、なぜあんなセンシティブな家族の話題を律樹に話したのだろう。律樹が言うみたいに、ただ単に、適当な相づちや慰めの言葉が欲しかっただけだろうか?
そうだ、俺は何て言って欲しかったんだろう。律樹の言葉が今更、胸に刺さる。もし、これが夢だとしても、科学で説明がつかない超常現象だとしても、この感情の揺れだけは理解しておきたい。
しかし、正直、もう夢だと言い切るには、現実はあまりにも生々しすぎた。
信じ難いが、きっとこれは現実なのだ。
そして俺は、人間ではない超常的な何かに、恋をしてしまったらしい。考えを巡らせれば巡らせるほど、その馬鹿げた結論のほうが妙に納得がいき、パズルのピースがぴったりと揃っていく気がする。俺は缶コーヒーの糖分とカフェインで、こんがらがった頭の中を無理やり整理していた。
そういえば俺は、子供の頃から甘いものが大好きだった。そうだ、あの店で誕生日会を開いてほしいとねだったのも俺だ。あの店のパンケーキは、柔らかくておいしかったから……。
お母さんと一緒に俺の服を買いに行った帰り、「少しお茶をしていこうか」という話になって初めて入った店だった。
少し単価は高いが、街の雰囲気に馴染んだおしゃれな店で、お母さんは「サトルが好きなの頼んでいいよ」と言ってくれた。そこで食べたのがあのパンケーキだったのだ。スフレではない、もちもちとしたパンケーキで、バターの香りと、生地の濃厚な味付けに、甘いもの好きの俺は飛び上がるほど感動して、興奮しながら頬張ったのを覚えている。
思い起こせば、幼い頃の記憶はほとんどお母さんだった。
お父さんに褒められたとか、お父さんに動物園に連れて行ってもらったとか、そういう話を友達から聞くのが、大嫌いだったな。
俺は今に至るまで21年間、お父さんに褒められたことはない。
…あー、なんか、これかもな。
俺は……きっと俺が欲しかったのは、律樹からの言葉ではなかったのかもしれない。俺が律樹に問い詰められて逃げたのは……きっと、律樹は全部持っていそうで、満たされていそうだったから。そういう人間からの、いや人間ではないか。まあ、何にしろ、そういうやつらのアドバイスは、正直浅瀬からの呼びかけでしかない。そうじゃなくて、もっと深くまで潜って、俺を見つけて引っ張り上げて欲しかったんだよ。だから、生ぬるい言葉はいらなかった。
……でも、でも何か欲しい。なんか、もっと別の何か。
俺……俺が本当に欲しいのは……。
……
思考の海に潜りかけていたその時、急に右耳が何も聞こえなくなった。耳鳴りすらない。まるで蓋をされたかのように、突如として音が消えてしまったのだ。
あれ? あれ? と、右耳を軽く叩いたり、首を振ったりして風の音を確かめたりするが、復活することはなかった。一体、何が……。
「ふう」
左耳のすぐそばで、誰かのため息が聞こえた。
その直後、視界は暗転した。
☆
気が付くと俺は、どこか深い森の中に立っていた。以前にも来たような、来ていないような…。不思議な森。
鬱蒼と生い茂る木々の隙間からは、たくさんの目がこちらを覗き込んでいるような視線を感じる。
不思議とそれは、怖くはなかった。むしろ、肩の力が抜けるほど妙に落ち着いていた。なんだか、"同じ"気がして。
ピシッ、パシッ、と枝や湿った落葉を踏みしめながら歩いていくと、薄暗い木々の奥から、巨大な手がゆっくりと手招きをする。俺はそれに吸い寄せられるように、その大きな手のほうへ自然と足を進めていた。ここにいると落ち着く、ここにいると、寂しくない。
その大きな手に誘われて森の奥深くへ進むと、そこには崩れかけた石の山、焦げ茶色の塗装が施された、苔むした古い木のようなものもあった。
その暗がりの奥へ大きな手が消えたかと思うと、再びぬっと伸びてきて、優しく俺の首元を包み込んだ。
不思議と、苦しくはなかった。その手は氷のように冷たく、圧倒的な力を感じさせるがっしりとしたものだったが、見た目のおぞましさに反して、決して強引ではなかった。
その大きな指が俺の肌に触れた瞬間、脳の中に俺の声が何重にも重なり、無数の言葉と感情が溶け合って流れ込んできた。
「受け入れてください」
「受け入れて」
「受け入れて欲しい」
これは、俺自身の心の奥底の声のだろうか。それとも、何者かが俺の声を借りているのだろうか。
だんだんと意識が朦朧としてくる。それは心地よい睡魔に似ていた。中学のとき、夏のプールの授業が終わったあとの社会の授業って、こんな感じだったっけな…。
「受け入れて」
「私を受け入れて」
「僕を受け入れて」
はいはい、分かってるよ…。俺は君たちのお父さんだよ。ずーっと一緒だから。
気づくと、俺は何か口を動かしていた。何か食べている……のではない、何かを話していた。
しかし、耳元で聞こえるゴーッという大きな音のせいで、自分の声がうまく聞き取りづらい。
耳の奥から、じわりと熱が広がり始める。あたたかい……。耳の中が熱を帯び、これは……何だ? 水のような、でももっと濃厚な液体が、鼓膜の裏を満たしていく。それが耳を塞いでいたから、さっきまで音が聞こえにくかったのか。
ふと、その音が遠のき、一瞬だけ周囲の音が耳に流れ込んできたその隙間に、俺が何を話していたのかようやく分かった。
「受け入れます」
俺は、笑っていた。自分の唇の端が吊り上がっているのを皮膚の感覚で自覚する。
笑っていたのは……たまらなく心地良かったからだ。
その温かい液体は耳だけでなく、口や鼻、そして目元までにも流れ込んできた。
なんかこれ…ホットアイマスクみたいで気持ちいいな…。
そんな心地いい微睡みの中で、俺の意識は深い泥の底へと沈んでいった。




