君の本当が欲しい
「やっぱり、律樹には聞いてほしいかも」
「え?」
思わず聞き返すと、彼はゆっくりと言葉を紡ぎはじめた。
「俺の父親はさ、かなり古風というか……躾って名目で殴る蹴るは当たり前だし、木刀で叩かれたりも普通にあったんだよね。頭も要領も良い人だった…うん、大抵怒られる理由は決まってて、俺の成績が悪い時、俺が弱音を吐いたり泣いた時だったな。……誕生日の日もさ、俺、本当は覚えてるんだ。その前の出来事は。ただ、この店に関しては、その前の出来事がショックでほとんど覚えてないんだよ。ただお母さんが可哀想だなって記憶だけ。」
ぽつり、ぽつりと零す有馬くんの言葉。会話の中に混ざるごく日常的な家族の呼称が、不思議な心地よさで耳に届く。いつもの彼にあったどこかサイズ感の合わないような…ムズムズするような装飾が削ぎ落とされ、素の人間味が覗いているからだろう。……有馬くんは母を「お母さん」、と呼ぶのだな。私はそんな、過去に戻る彼の顔を、静かに見つめた。
有馬くんは言葉を選びながらも、自身の幼少期をたどるように語り続けた。たどっていく度に彼はその時の自分に戻ったかのように「父親」「母親」から「お父さん」「お母さん」に呼称が変わっていったり、表情も柔らかくなっていった。店内にかかるBGMのジャズも耳に入らないほど、気づけば私は彼の声に思考を奪われていた。語るだけで体力を削られるのか、彼のトーンは段々と低くなり、疲弊の色を深めていく。
「俺はまあ、知ってると思うけど、あ、いや、律樹は俺に興味無いから知らないか…。第1志望に落ちて、第2志望の大学入って…就活でもインターンすら第1志望落ちたし、インターンから優遇入って就職〜みたいなルートからは外れた負け組なんだけどさ、その問題の、8歳の誕生日の時も、俺が通ってた塾の成績があまりにも悪い上に全く成績が上がる気配がなくてお父さんにブチギレられた時なんだよ」
「そっか……そんなことがあったんだ」
口を出したい部分は山ほどあったけれど、今はすべて喉の奥に押し込め、彼の話を受け止めることに徹した。
「お父さんもう収拾つかないくらいキレて俺の事アホみたいに殴るから、俺も掴み掛って応戦してさ、揉み合いになってるとこにお母さんが割って入って説得してくれて…はあ。泣いて縋る俺のせいで、泣くのが嫌いな父親は余計に激怒して、結局誕生日会には来なかった」
過去の痛みに浸る時、彼の言葉使いや表情には幼い柔らかさが戻る。途中でかすかに混ざった「虚勢」の匂いには触れず、私はその話に、ただ相槌を打った。
「有馬くん、そういう話をしてる時、すごくいい顔するよね。いつもそうならいいのに」
あっ、しまった、と思った時には言葉が漏れていた。無礼だったかと思い彼の様子を伺うと、
「?いつもの俺と違うところある? 」
と、首を傾げている。こちらの真意までは届いていないらしい。私もまた、その違和感を完全に言語化できるほど理解できてはいないので、上手く答えることができなかった。
「う〜ん、違うね。違うんだけど、何が違うのかはわかんない……」
「?あ、そうなんだ、よく分かんないけど。話戻ると、そういう感じで父親は誕生日会には来なかったんだよ」
「ふうん。今は…お父さんと仲は良いの?」
「あー。まあ今も別に仲良くはないかな。会えば大抵喧嘩になるし、父親も俺の事多分あんま好きじゃないと思う。とことん期待外れだし俺」
「そうなんだ…。でも有馬くんは顔も綺麗だし、大学だって別に平均以上には良い大学入ってるし、インターン?も、この前すごい良いところのインターン行ってた…よね?あれ、違うっけ?丸山くんからの又聞きだから違ったらごめんね」
「いや、合ってる。でも父親は外資か総合商社行ってほしかったみたいで、俺は別に…いや、まあ別に行ってもいいんだけどさ…」
「ん?どうしたの?」
有馬くんの中の迷いと躊躇いが、彼の語尾を濁らせる。
「まあいいか…。もう律樹には俺の滅茶苦茶なとこばっかり見せちゃってるし…いいや」
「…ふふっ、どんとこい!」
彼は恥ずかしそうに、口元を隠していた手を胸の前で組み直し、それから膝に置いた。胸のすくような解放感があった。なんだか、有馬くんの前に立ち塞がる”有馬等身大パネル”が風に飛ばされ、パネルの影から生身の、8歳の彼が後ろに手を組み、もじもじとしながら現れたような感覚。
冷房の風でパスタが冷めていくのも気にならないくらい、私は彼の次の言葉を切望していた。
「うん……俺別に、そんなに闘争心強くないんだよね、闘争心より独占欲とか、はあ…。頑固さの方が強いと思う」
本音を明かすたびに頭が下がり、せっかくぴんと伸ばし直した彼の背筋はどんどん曲がっていき、最後には眉間を指で抑え、肘をついてしまった。
「あっ、そうなの?有馬くんの日頃の会話からてっきり闘争心も上昇志向も強くてトップを目指したい!みたいなタイプだと思ってたよ」
私の返答に対し、有馬くんは力なく、ぐったりとした笑みを浮かべ、窓側の壁に寄りかかった。
「別に、そんなん、どーでもいい…好きな人と安心できる場所が欲しい…それだけ………ほんっとどうでもいい…………」
彼の口からふいに落ちた本心
―――好きな人と、安心できる場所
カチリ、と頭の中で何かが繋がった。
脳の奥が痺れ、顔に熱が集まる。
これだ…!
僕が、僕が欲しかったのは、これ、この有馬くんのこの言葉だった。
この言葉……いや、言葉だけじゃない、この有馬くんだ。この状態の有馬くんを僕は待っていた。パネルの影に隠れていた、本当の彼。僕が抱いていた違和感の正体が、今ここにあった。
「だ、あ、そう、そうなんだ、それでそれで?」
今度言葉を詰まらせたのは僕――あぁっ、違う、今、僕は私だ、しっかりしろ!
高鳴る胸を抑え、口角が吊り上がるのを必死で耐える。しかし動揺が抑えきれない。
これは、物凄く感情だ。私は今、最高に人間をしている気がする。この時、感情というものが肉体を操作している感覚を強く覚えた。
「どうでもいい……けど、好きな人と安心できる場所を確保するには、やっぱ男は強くないといけないんだよ。お父さんがそうだったみたいに。お父さんは成功した人だから、お父さんの真似をしてれば…絶対絶対成功できたんだよ…でも俺の脳じゃ全然足りない、全然お父さんになれない」
彼は悔しそうに眉をしかめた。残りひとくちの彼のパスタが、時間を置いてずいぶんと味が落ちていそうな見た目になっていた。
「有馬くんはお父さんみたいになりたいの?」
私の質問に有馬くんはぼんやりと考え、それからぽつりと呟いた。
「あの人の理想になりたい……」
絞り出すようなその言葉がとても切なく、また、これも彼自身の言葉だった。
その道に君の望むものはない、と叫びたかった。けれど、彼はそれを制するように言葉を重ねる。
「でもなれない。俺頭悪いんだよ。やればやるほど自分の無能さに吐き気がして、学生の時も…フッ、今も学生だけど。中学の時もさ、テキストを川に投げ捨てたこともあるし。さっきさ、父親に殴られた時応戦したって言ったじゃん。あれ嘘。殴られた時、俺は必死でダンゴムシみたいに丸まって腹を守ってただけ。痛いし、胃液が込み上げてきて、ただ怯えてた。………ふ…情けねー」
一気に捲し立てるように過去の話をしたあと、彼はお冷を煽った。涙こそ流していないものの、目は赤く血走り、鼻をすする姿は21歳の青年ではなく、傷ついた8歳の少年に見えた。
「…なんで律樹には、こんなに話せちゃうんだろうな。律樹は俺のものにはならないのに。心開いたって、話したって意味ないのに」
「…。別に私は友達で良ければずっと君のそばにいるよ。”対等な”友達で良ければね。それに多分、お父さんの道を追っても、有馬くんの欲しい未来はその道にはないと思うよ」
「律樹が俺の隣にいれば、俺の欲しい未来は完成するんだけどね」
「隣にいるよ。友達として」
彼は、フッ、と自嘲気味に、口角を片方だけ上げて笑った。
「俺の何がダメだった?直すから、教えてくれないかな。誕生日に高級ホテルのアフタヌーンティーだってプレゼントするし、稼いでタワマンにだって住ませてあげる。もし家事が嫌なら手伝うし、料理も努力するよ。だから、もう1回チャンスくれないかな」
すがるような有馬くんの焦燥を帯びた声が、店内のBGMに虚しくかき消されていった。
「有馬くん、違うよ。私が欲しいのはそんなんじゃない。君の本当が欲しい」




