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残業の銀河

翌日のデート当日。


僕は緊張しすぎて一睡もできなかった。別に、睡眠をとる必要はないのだが、普段と異なるルーティンだとどうにも落ち着かない。うう……。どうか、何事もなく平穏に終わってくれますように。僕はいつものようにシャワーを浴び、今日の服を選び取って着替える。今日はあえて少しラフな格好でいき、友人としての距離感を強調しよう。あまり着飾ってこれ以上好きになられてこじらせてしまい、彼が干渉してくることで、僕のペースを乱されるのは困る。


こんなこと、あまり言いたくないが……。


本来、僕らの使う魔法は人に向けて使ってはならないし、見せてはならない。そもそもこの地球の存在たちは、自らが魔法を使えることすら忘れている者がほとんどだ。魔法といえば、ドカーン、バキー、キラキラと、派手で目に見えるものしか存在しないと思い込んでいるのがその原因だと僕は思う。彼らは言葉によって魔法をかけたり、何かを作ったり育てたり、互いに働きかけ合うことで知らず知らずのうちに魔法をかけ合っている。呪いもまた、同じように。その中で、僕らが彼らの知らない大胆で派手な使い方を見せてしまえば、きっとそれだけが唯一の魔法だと信じ込んでしまう者も増えるだろう。


それに、今のこの惑星の存在たちは、魔法を発展のためではなく、おそらく破滅のために使ってしまうはずだ。だからなるべく僕らは彼らの前で魔法は使えないし、むやみやたらに魔法をかけてはいけない。ただ、今回のデートを本当に魔法なしで乗り切れるのか……そこが不安でならない。


僕は男の姿から女の姿へと魔法で変身し、グレーのスウェットに、袖口へ繊細なレースがあしらわれた白いTシャツを身にまとう。香水は……今日はやめておこう。無香料の制汗シートと財布、メイク直し用のリップをミニバッグに詰め込む。お気に入りのドレッサーの前でメイクを済ませ、髪をゆったりと巻き上げる。よし、これでOK。今日は雨が降るそうなので、バラのデザインが施されたお気に入りの日傘兼用の傘を持って部屋を後にした。


集合時間は19時。現在は18時20分を指している。余裕をもって待ち合わせ場所へ向かえそうだ。僕はゆっくりと駅へと歩き出した。



挿絵(By みてみん)


☆



集合場所につくと、有馬くんはまだ来ていないようだった。連絡も特にないし、もしかしたらドタキャン……?なんて不穏な想像も頭をよぎる。まあ、私が5分前に到着したのだから、待ち合わせ時間より前だし別に問題はないはずだ。……なんて考えていると、向かいの信号待ちをしている有馬くんの姿が目に入った。彼も私に気づき、大きく手を振っている。おーい、ここ!ここだよー。私も小さく手を振り返す。なんだ、有馬くんは元気そうだ。杞憂に終わってよかった。彼は信号が青に変わるやいなや、飼い主を見つけた犬のように、足早に歩く人々の間を無理やりかき分けて走ってきた。相変わらず手や腕にはガーゼや包帯が巻かれているものの、今日という日を心待ちにしていたのが手に取るようにわかる、無邪気な笑顔で私の前に現れた。彼は到着するなり息を弾ませ、膝に手をついた。その姿はやや大げさに見えるが、首筋から流れる汗や、じんわりと濡れた襟足を見ると、ここへ来る手前で相当焦って走ってきたのだろう。彼は背中で大きく2、3度深呼吸をすると、ぱっと顔を上げて嬉しそうに言った。


「行こ!」


いつもの彼らしくない様子に若干戸惑うが、昨日“友達でいたい”と言ったことが、彼の中で都合の良い(あるいは予想外の)解釈につながり、こうした行動に出たのだろうか……などと自分の中で無理やり納得させる。こちらのペースでいられるなら僕にとっても…いや、今は私か。私にとっては話しやすいので助かる。私たちはそのまま目的地の店へと向かった。駅からその店までは徒歩3分ほどと非常に近く、他愛のない会話をしているうちに、あっという間に店の前へと到着した。会話など弾まないものだと思っていたが、有馬くんはこの前のキザな雰囲気とは打って変わって、驚くほどフランクに、自然体で話しかけてくれる。まあ、彼のトークは相変わらず毒を帯びているが…。それにしても見栄えの良い彼は、今日はボタンを大きく外し、胸元を開いた有名ブランドの白いポロシャツの下にブルーとイエローのチェック柄を重ね着し、腕をまくっている。指にはシルバーのごつごつしたリングが光り、暗い色の硬めジーンズがよく似合っていた。ただ、腕のあちこちに貼られた絆創膏や、まだかさぶたになっている口元の傷が痛々しい。頬のあざもだいぶ薄くなってはいるものの、黄みがかった治りかけの色が生々しく、彼の腕で華奢なブレスレットだけが、街の明かりをちらちらと反射させていて妙に眩しかった。



☆



有馬くんが予約してくれたのは、モールの中にある店だった。エレベーターで7階まで上がり、フロアに降り立った瞬間、私たちは場違いなほど洗練された高級感のあるエリアに来てしまったと後悔した。乗ってきたエレベーターがすいていて、乗り合わせたのが私たち以外にサラリーマン風の男性ばかりだったためTPOが判断しにくく、油断していたのだ。


周囲を見渡すと、ほとんどの人々がドレッシーな装いに身を包み、必要最低限しか入らなさそうな小さなバッグをアクセサリーのように肩から下げて優雅に歩いている。もちろんカジュアルな服装の人もちらほらいるが、私ほどラフすぎる格好の者はいない。有馬くん、こういうお店だと言ってよ……!こんな大恥をかくとは夢にも思わなかった。よく見れば、有馬くんの格好も普段よりは幾分フォーマル寄りだ。


要するに、完全に私は浮いていた。


そんな気まずさを覚えつつ、彼の背中に隠れるようにエレベーターホールを抜け、すぐ突き当たりにあるその店へと向かった。


店に到着すると、私たちは窓際の席へと案内された。どうやら有馬くんが夜景の見える席を取っておいてくれたらしく、特別扱いをされているようで嬉しいような、気恥ずかしいような、複雑な思いを抱きながら彼の背中についていく。これが本当にただの友達との食事なら、彼はこんなことをしていただろうか。彼の交友関係は丸山くんしか知らないし、丸山くんと彼が普段どんな付き合いをしているのかもわからない。そんなことを考えていると、ふと有馬くんが足を止め、私の視界を遮っていた彼の背中がふっと消えた。


瞬間、


目の前に広がる大きな窓の向こうに、東京の夜景が息をのむ美しさで広がっていた。私は美しいものが大好きだ。この高さから見下ろす景色は本当に素晴らしかった。夏なのでまだ完全に夜の闇には沈みきっておらず、夕日が名残を惜しむように消えかかり、代わりに夜を連れてくる闇と、オフィスビルの残業の窓明かりが輝いている。あの一粒ひと粒の光の奥で、人々がそれぞれの人生を抱えて葛藤し、命を燃やしているのだ。銀河の星々のようにどこか冷たく、けれど切実に、なにかを訴えかけるような光を放つ夜景に、私はすっかり心を奪われて見入っていた。


「どう?綺麗じゃない?」


有馬くんはソファに腰掛け、左手側の窓の外をぼんやりと眺めながら言った。私はそのひと言でようやく、自分が夜景に見惚れて突っ立っていたことに気づき、慌ててソファへと滑り込む。私も彼と同じように、窓の景色に釘付けになった。


「ずっと……いつかできた大切な人と、ここに来てみたかったんだよね、俺」


有馬くんは、眼下の大通りを往来する車のテールランプを見つめながら、しみじみと呟いた。


「そうなんだ。来れてよかったね。夜景もすごく綺麗だし、ここに来たくなる気持ち、わかるなあ……」


私はあえて、彼が口にした“大切な人”というキーワードには触れず、穏やかに話を合わせた。


有馬くんは私の言葉を聞くと、夜景からゆっくりと視線を私の方へ滑らせ、どこか柔らかい微笑みを浮かべた目で言った。


「いや、ここさ、昔、母親が一度連れてきてくれたんだよね。俺が8歳の誕生日だったんだけど…ま、小さすぎてあんまり覚えてないけどさ」


彼はそう言ってテーブルのメニューを手に取り、おもむろに開き始めた。ウェイトレスが現れ、お冷とおしぼりを置いて去っていく。有馬くんは手際よくおしぼりとお冷を私の前に分け、ディナーのページを開いたままメニューをこちらに差し出した。


「あっ、ここのディナーメニューも、すごく評判いいみたいだよ。律樹はこういうの好きかな?」


彼はガーゼの貼られた右手でメニューの一節を指し示す。だいぶ傷は塞がってきているようだが、やはりどこか痛々しさが残る手だ。頬のあざも隠しきれておらず、何より首元に残る痛々しい痕が彼の纏う悲壮感を際立たせ、昨日と同様に、そのセンス・質のいい服装とのアンバランスさが目立った。有馬くんは私の視線に気づいたのか、左手でそっと首元を覆う。その拍子に右手に変に力が入ったのか、バランスの悪い分厚いメニュー表がパタンと音を立てて閉じてしまった。


「あ…それで、その誕生日の日にさ、父親と大喧嘩してて……。母親が俺を慰めるためにここに連れてきてくれたんだよね。本当は家族みんなで来たかったんだけどさ、誕生日だったし。でも、俺が全部悪かったんだけど。あの頃の俺は、本当に弱かったから」

「子どもなんて、誰だって弱くて当然だよ。守られるべきなんだから。そうやって守られることを学んで、そこから少しずつ強くなって、今度は誰かを守ることを覚えていくんだから……8歳の時の有馬くんは何も悪くないよ」


私の言葉に、有馬くんはまるで予想外の事を言われたようなハッとした表情を見せた。


「守られるべき……?そうかな。まあ、女の人はそうかもしれないけどさ、男はそんなこと言ってられないんだよ。男は強くなくちゃいけない。泣いたらキモがられるし、弱いところを見せたら、男にも女にもナメられて終わり。こんな戦場みたいな社会で生きるのに、誰かに守られる方法なんて学んで何になる?守られる保証なんてこの先ないのに。誰も守ってくれないのに。だったらさっさと自分で自立する術を身につけて、いかにライバルの男どもを出し抜いて勝ち上がるか、あるいは……あ、いや、なんか、俺、今めちゃくちゃキモいこと言ってるな。ごめん、忘れて、いや、今話すべき内容じゃなかった」


私は、後半になるにつれてみるみる語気を強めていく有馬くんを観察しながら、閉じてしまったメニューをもう一度開き直した。彼は一体、私にどんな返答を求めているのだろう。なだめてほしいのか。共感してほしいのか。それとも反論してほしいのか。私は、彼の頑なな思考の奥底にあるものが急に知りたくなった。


「ううーん、その話、もう少し聞きたいな。……それって、誰の考え方なの?有馬くんのお父さん?」


“お父さん”という単語が出た瞬間、有馬くんの整った眉がぴくりと微かに跳ねた。


「いや……」


彼は視線を落とし、そのまま黙り込んでしまった。長く伸びた美しいまつ毛の影に隠れ、その瞳の奥の色はまったく読み取れない。


「――お決まりでしたら、ご注文をお伺いします」


絶妙なタイミングでウェイトレスが注文を取りに現れ、会話は強制的に中断させられてしまった。私はとりあえず、メニューの中で聞き馴染みがあったじゅ、じゅのべー、…。ジェノベーゼを頼むことにした。有馬くんは、ウニとトリュフが贅沢に載ったクリームパスタを注文した。


うう……。やっぱり私もそっちにしたかったかも……。急いで決めてしまったことを内心で少し後悔しつつ、注文を終えると、私は再び彼の話を催促した。


「で、どうなのかな?話したくなかったら無理しなくていいけど」


「いや、別に……」


取り繕うように余裕ぶった笑みを浮かべる彼は、しかし顔を引きつらせており、必死に強がっているのがありありと伝わってきた。


「男の幼少期は、人生の一種の修行なんだよ。他の奴らよりも早く自立する術を身につけて、どうやって勝ち上がり、どうやって生き残るかを学ぶ時期だ。誰かに守ってもらう時期なんかじゃない」

「…ふうん。話が戻るけど、それは有馬くん自身の考え方?」

「うん、俺の考え」

「本当に?」

「本当に」

「そう。誰かの刷り込みとか…または理想を自分の考えのように錯覚してない?」


「してないよ。うん……。てかさ律樹。さっきから何なんだよ。俺、何か気に障るようなこと言った?」


有馬くんの顔色が一気に曇った。

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